夢の終わり

   6

 しかし、これも予想された反応ではあったのだが、陽子の旦那だってロール・プレイング・ゲームの勇者の父などではない。素敵な台詞など望むべくもない。
「おまえ、なんでこんな寒い日にコーラなんか買ってくるんだ?」
 陽子にむかってつぶやいた口調は、特に激しくなじるものではなかったけれど、当たり前のことを当たり前のように口にする、その言葉がどれほど陽子を傷つけるか、気が付きもしないで。
「いいじゃない、熱がある時はこういうのも美味しいかなと思っただけ」
「普通はスポーツドリンクだろ」
「わかってるわよ、そんなこと!」
 突然の妻のヒステリーに、旦那は「なに怒っていんだ、ばか」と言いかえした。
「いいでしょ、べつに。たかが150円のジュースぐらいで、いちいち文句なんか言わないでよ」
「おいおい、オレは、ただ、自分の正直な感想を言っただけで、文句を言ったおぼえはないけど?」
「い・い・ま・し・た」
「……」
 またこのパターンだ、と陽子は思い、悲しくなった。きっと一生私たちはこういうすれ違いを続けるのだ。
 そして、また余計なことを思い出してしまう。あの秋の休日……結婚20年の記念日にディズニーランドに行って、なんとそこで嬉しそうに携帯テレビを取り出し、プロ野球観戦を始めた大バカ。「地方放送がよく入る」って、にやけて。頭をかち割って脳みそ洗濯してやろうか、と怒鳴りたかった。どうしてこの人は、これほどまでに『人の期待』をぶちこわすことを平気でするのだろうか。
 思い出すと、ますます腹が立つ!
「べつに、あなたに飲んでもらわなくていいから。私、飲みます」
 陽子はキャップをねじって、コーラを口にする。甘すぎるし、冷たすぎるし、炭酸の刺激も強すぎる。こんなものを真冬の夜の自動販売機で売っていること自体が法律違反じゃないの、と思ってしまう。実際に、冬はコーラの販売量が減ることを陽子も知っていたが、いちおう入れておかなければならない事情があることも知っていた。世の中というものは、どうしてこうねじ曲がったことばかりなのだろう? もっと、好きなら好き、嫌いなら嫌い、とはっきり言えるような、さっぱりとわかりやすい社会がいいのに。息子を愛しているなら、愛していると言わせてもらったっていいはず。かまってあげたい気持ちがあふれているなら、かまわせてもらったっていいじゃない。150円のジュースを一本余計に買ったくらいで、いちいち無神経な文句なんか言われたくない。
 一口飲んでもてあましている陽子の手から、旦那がボトルを受け取って少し飲んだ。
「やっぱ、冷たいな。なにか温かいものでも買ってくればよかったのに」
「缶コーヒーしかなかったのよ。こんな時間に缶コーヒーとか飲みたくないでしょ?」
「うちの自動販売機に、ホット・はつみつレモンってあるだろ。あれ、なかなか好きなんだよ」
「あなたって、ときどき子供みたいに甘いものが好きよね」
「仕事で疲れて帰ってきてさ、家の前で一人、ホット・はつみつレモンを買って飲む。あれがホッとするんだよね」
「そんなこと言って、仕事で残業して遅く帰ってくることなんて年に何度もないじゃない。昔のあなたは、もう少し緊張感のある人だと思っていましたけど」
「まあ、公務員だからな。無意味に緊張してもはじまらないよ。むしろ別の精神的苦労があってね。外注の業者選びだって大人のしがらみがいろいろあるし、義が義で通らない心を、ホット・はつみつレモン様が癒してくれるわけだ」
「ふーん……」
 ふーん、と冷たく言いはなつ。なんだか私たちの夫婦の間には100万光年ほどの距離があるな、と陽子が悲しい気持ちで思いをめぐらしたところで、通路の奥から白衣の医師と、白いワンピース姿の看護師がスタスタと早足でやってきた。

「すみません、お待たせしちゃって。中ですか?」
「そこのベッドに……」
 医師と看護婦は診察室に入った。陽子はすかさず立ち上がり、無関心な上にぶっきらぼうな旦那を置き去りにして、診察室に続いて入った。椅子に腰掛けた医師は、看護師から受け取ったマスクをしながら、カルテを見て名前を確認した。
「えっと、小林クン、だね。どうかな?」
 自分でベッドから下りて丸椅子に移った啓吾に、看護婦が電子体温計を渡した。啓吾はえり元から体温計を入れて脇にはさむ。医師はさっそく啓吾のマスクを外し、ライトペンをかざして、へらで啓吾の喉(のど)をのぞき込んだ。
「いつ頃から悪くなりましたか?」
 横にひかえた陽子が、すかさず説明した。
「二、三日前から調子は悪そうにしていたんですけど、熱が出たのは今日からみたいです。本当は学校をお休みするべきだったんですけど、この子、明日から東京に受験に行くので、今日は無理に学校に行って、帰ってきて夕食を食べたら、ぐたっとしていて、熱を測ったら39度もあって、びっくりして来させていただきました」
 医師はボールペンでカルテに記載しながら「明日から受験なの?」と質問した。
「正確には、試験は20日からです」と啓吾がぼそっと答えた。「いちおう、明日のうちに行っとかないと」
「何校ぐらい受けるのかな?」
「三校」
「じゃあ、しばらくむこうにいることになるね」
「そうっす」
「そうかぁ、それはちょっと困ったね」
 電子体温計がピピッと音を発した。啓吾が脇から取り出して差し出すと、受け取った看護師が「39度2分です」と医師に伝えた。
「じゃあ、胸を診させてくれるかな」
 啓吾がセーターを脱ごうとすると、医者は「大丈夫」と手で制し、お腹の方から服をまくり上げて聴診器を差し入れた。数カ所の音を数秒ずつ、丁寧に確認してから、笑顔でセーターを下げた。
「肺は特に異常ありません。咽(のど)が赤いし、いわゆる風邪ですね」
「あの……無理かとは思うんですけど」と陽子が申し訳なさそうに言った。「すぐに治るお薬があったら、少し高くてもそれをお願いしたいところなんですが」
 医師は苦笑し、テキパキと早口で説明した。
「そういうものはないですよ、お母さん。風邪はね、昔も今も自分の身体が戦って治していくしかありません。薬はそれをサポートするだけ。小林クン、咳(せき)は?」
「少し」
「吐き気や、下痢は?」
「大丈夫です。だいたいノドが痛いのと、熱だけ」
「アレルギーとか持病は何かある?」
「いいえ」
 詳しく説明しない息子に代わって、陽子が「小学校を卒業するくらいまでアトピーでした。今はだいたいよくなって薬はもう飲んでないです」と早口でつけくわえた。
「よし。じゃあね、とりあえず今日は総合感冒薬、抗生剤、うがい薬、熱冷ましを出しておきます。でも、我慢できるようだったら、なるべく熱冷ましには頼らないで、温かくしてぐっすり休んだ方がいいでしょう。安易に熱冷ましに頼ると逆に治りにくくなることもありますからね。汗をかいたら下着とかを取り替えて。で、明日出発だそうだけど、午前中に来れるかな?」
「午前中なら、大丈夫です。明日中に着けばいいので」
「というのはね、今は時間外なので、薬が少ししかお出しできないんですよ。旅行中は足りなくなるでしょう。むこうで改めてお医者さんにかかってもいいけど、それも大変なので、時間が許すなら、また明日の午前にいらしてください」
「はい」
「先生」と陽子が口を挟んだ。「点滴とかはいいのですか?」
「小林クン、水は飲める?」
 医師の問いに、啓吾は黙って頷いた。
「吐き気があって水分とれないようなら点滴をしますが、スポーツドリンクなど飲めるようなら必要ないです。だから今日は、お薬をお飲みになって、水分をたっぷり取って、早めに休んでください。勉強も大切だけど、睡眠も重要だからね。こじらせないように、今夜はよく眠ること。いいね?」
 医師はしゃべりながら、すらすらとカルテを記載し、最後にサインのようなものを殴り書きすると、さっと横の看護師に差し出した。
「では、看護師からお薬が出ますので、私はこれで。おだいじに。試験、頑張ろうね」
 医師は人生の先輩としての応援メッセージまで付けくわえて立ち上がると、受付にむかって「3A病棟に行ってくる」と声をかけて、すぐさま大股(おおまた)歩きで廊下の奥に消えていった。
「こんな時間なのに、忙しそうだなぁ」
 医師の後ろ姿を見送った父親は、まったりとした表情でつぶやいた。

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