夢の終わり

   7

 陽子は看護師から薬を受け取り、受付の女性に『預り金』を渡した。夜間は計算が出来ないので五千円預けて、あらためて日中に精算するとのこと。
「ありがとうございました」
 と小林一家の三人はそろって頭を下げた。
 陽子は「あー、よかった。あとは試験ね」と息子に言った。
 旦那は「新幹線の予約はムダになったけど、午後だってチケットとはされるさ」と、まるで上司のわがままで仕事の予定が変更されたときのように、すっかり受け身の態度で言った。
 上着にそでを通し、あとは帰るだけというときになって、陽子は冷たいコーラのことを思いだした。旦那が座ったソファーに置きっぱなしになっていた。スポーツドリンクの方はすでに飲み干して診察室のゴミ箱に入れてきてしまったが、こちらはまだ数センチしか減っていない。その黒い液体が、陽子にはまるで冷たい悪魔のように感じられた。『家に持って帰ればいいじゃないか。あんたの配慮のたりなさの象徴として。いや、家族の不和の象徴か?』と、悪魔はささやいている。
 ばかじゃないの。そうはさせません。
「ねえ、しょうがないから、これ、捨ててくるわ。通路の奥にトイレがあったわよね?」
 旦那は首を横に振って指さした。
「遠くじゃないよ。トイレならすぐそこ。左側」
 陽子はささっと通路を進み、トイレをみつけると『女性用』と表示された扉を押して入った。
 誰もいない寒いトイレ。陽子はペットボトルのキャップを開けて、洗面所にコーラを流しはじめた。白い清楚な洗面台に、茶色の液体が泡と共に流れていく。その液体を見ていると、陽子の内側から、急になにかがこみ上げてきた。吐くのかと思って洗面台にかがみこんだが、喉(のど)からはなにも出てこなかった。出てきたのは、涙だった。両目からほとばしってくる。
 もったいないのは確かだけど、150円のコーラなんかべつに捨てたっていいのに、と思う。こんなの、またいくらでも買えるんだから。トラック一台分のコーラを捨てたって、いい大人が泣いたりはしないわよ、普通。
 陽子は鼻をすすり、腕を横に伸ばして、入り口の扉を引いて隙間をつくると、振るえがちな声を押さえ込んで言った。
「私、トイレに入ったら、したくなっちゃったかも。先に車に戻ってもらっていい?」
 旦那から「うん、いいよ、ごゆっくり」と気のない返事が返ってくる。
 ぶらぶらと二人が去っていく足音が響く。
 陽子は再び洗面台にかがみ込んだ。激情を身体の中にため込みすぎていた。そのはけ口もない。一人になり、緊張がとぎれると、空になってしまったペットボトルを洗面台にころがし、冷たい床にへたり込んだ。

 ねえ、なんでよ?
 なんで、こういうことになっちゃうのよ?
 なんで東京に行っちゃう前に、いろいろ悩んで買ったコーラを「あー、うめー」って飲んでくれないのよ?
 あなたの好きなコーラがトイレの洗面台に流れちゃったのよ!
 ぜんぶ、捨てちゃったのよ!
 それでいいわけ?
 ひどすぎない?
 いくらなんでも、あんまりだと思わない? 
 ねえったら!
 ねえ……

   8

 陽子はずいぶんトイレに時間がかかっているようだったが、それはそれで別にいいのだった。車に戻った父親と息子は、それぞれ運転席とバックシートに座り、アイドリングによって少しずつ暖まっていく暗い車内で、ぼそぼそと会話を続けた。

「熱が下がればいいけどな」

「平気。本命(ほんめい)は、まだ先だし」

「母さんについてってもらうか?」

「冗談じゃないよ」

「そうだな。ちゃんと栄養とれよ」

「わかってるって」

「ま、すきにしろ」

「ところでさ」

「ん?」

「母さん、大丈夫かな」

「なんで?」

「なんか、ヘンじゃん」

「まあな」

「困るんだよね、ああいうの」

「女なんて、そういうもんさ」

「そうかもしれないけど」

「ま、心配すんな」

「うん……」

「オレがついているし」

「ははは……」

「それより、おまえ、せっかく行くんだから、一つぐらい受かってこいよ」

「うん、そだね」

 会話がとぎれると、啓吾は身体を横に倒し、後部座席のドアにもたれて、冷えた窓ガラスに額(ひたい)を当てた。
 心に疼(うず)く想い……今日、高校で美人のMの割りきったような態度に接したことが、今では不思議なほど遠い過去の出来事のように感じられた。
 この土地への未練は、彼女が立ちきってくれた。ここで幸せを目指す人も、いてもいいし。
 自分は、ちがった、それだけ。

 目を凝らすと、ガラス越しにいくつか星が見えた。啓吾は小学生のとき、両親と見た星のことを思い出した。あれはたしか夏休みのこと。温泉にむかう家族ドライブの途中だった。山の上の見晴台で、真っ暗なのに、わざわざ車を停めて眺めた。遠くに街の明かりが見える以外は、ほとんど真っ暗だったし、他に停まっている車もなかった。しかしそこは両親二人にとって想い出の場所だったらしい。ステンレスの手すりにもたれた母親が、満天の星空を見上げて「星って、いつ見ても変わらないのよね」としみじみとつぶやいた。それを聞いて、小学生だった啓吾は、恥ずかしさに背筋が震え、なに当たり前のこと言ってんだろ、バカみてー、と思ったものだ。
 しかし、そのときの星も、今夜の星も、なにも変わっていない。あたりまえだけれど、変わっていない。
 変化しないこと……そういうことが実際にあるんだ、と、啓吾は自分でも不思議なほどしみじみ感じた。
 すると急に、悲しみと痛みの混ざりあったような、いいようのない感情のうねりに襲われた。
 運動しているわけでもないのに、急に身体がほてってきた。でもまあ、風邪をひいているからな、と、彼は思った。寒かったり、ほてったり、いろいろある。
 しかし問題はそんなことよりも、目の前の大学入試だ。いずれここに帰ってくるかもしれない。しかし一度は東京に行っておきたい。
 啓吾は、頭の中の思考を、日本史に切り替えた。

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