スキー小僧
怪談話をありのままに語るのは、あまり縁起がよくない気がする。ここでは仮に主人公の名前をTとしておく。
Tは三十歳後半の会社員。妻と二歳の子供がいる。根が真面目な性格で、浮気はしたことがなかったが、たまに昔からの男友達たちと、女性ぬきの気楽な旅行をすることはあった。
その年の二月、彼は男七人で新潟のスキー場に向かった。彼らにとってはなじみのスキー場だ。
早朝に車二台で東京を出発したTたちは、昼すぎにはゲレンデに立っていた。まずまずの雪の状態を楽しみ、ナイター直前まで滑ると、スキー板をかついで宿に戻り、風呂で暖まってから、食堂で夕食を囲んだ。
そこは学生時代から利用している大部屋主体の安宿だった。おしゃれな雰囲気とは全く無縁だったが、へんに気を使う必要もなく、好きに酒を飲みながら美味しいものを腹いっぱい食べられる。
今夜は特大のホットプレートがふたつ、大皿山盛りの食材、刺身盛り、小皿やビール瓶、それらがところせましと並べられていた。男たちはビールを片手に、肉やら、イカやら、野菜やら、なんでもじゃんじゃんプレートにのせ、こうばしい油煙を立ちのぼらせた。
部屋の暖房によって水滴におおわれた窓のむこうには、まだ照明の連なりが美しくにじんで見えた。酒もいいが、Tは内心、ナイターもやりたいな、と思わなくもなかった。
Tはかつてこのスキー場のナイターで、恋人と滑ったことを思い出す。カクテル光線の中、細面の彼女が幸福そうに微笑むと、今すぐ人生が終わりになってもいい、くらいに感じたものだ。
しかし、もちろんその瞬間に人生は終わりにはならなかったし、その女性との関係は二年で終了した。別れは二人にとって軽い話ではなかったが、なぜか互いに涙とは無縁だった。
大切な時間を共有した……それは確かだった。しかしそのまま人生を最後まで共にすごす、という発想には至らなかった。
二人は別れてからは一度も会っていない。友人であり続けることは、彼女が明確に拒んだからだ。
山盛の食材を食べつくし、二階の部屋に引き上げてからも、しばらく酒を飲んで語り合っていた男たちだったが、やがて早朝出発からくる強い眠気が全員を襲った。それぞれ布団にもぐり、最後にTが部屋の明かりを消した。
Tも眠気は感じていたはずなのに、部屋の明かりを消すと、なぜか目がさえてしまった。ときどき山からのものか、建物からのものか、はっきりしない風のうなりが建物を包み込んだが、どうやら強い寒波が流れ込んできているらしい。
きっと明日の朝はふわふわの新雪だろう。早く起きて滑りに行かなくては、と考えると、彼はますます寝付けなくなってしまった。
やがてTは飲み過ぎたビールのせいでトイレに行きたくなってきた。セーターを着て、アルミサッシ越しに風音が聞こえる二階のトイレで用を済ませてから、少し食堂で茶を飲もうと思い、階段を下りると、ちょうど階段の降りたところにある玄関から、戸を叩く音が聞こえてきた。
とんとん……とんとん……
遠慮がちだが、確かに誰かが叩いている。宿泊客が閉め出されたのだろうか?
広い玄関は、深夜でも半分の明かりは点けっぱなしだった。壁際に多数のスキー板が立てかけてある。
Tはサンダルを履いて、防寒用のカーテンを開けた。そして鍵を開け、戸をずらし、磨りガラスの向こうに顔を出し、周囲をうかがってみたが、なぜか誰もいなかった。
不思議に思いながらも、きっと風がなにかを飛ばして当てていただけだろうと考え、あらためて扉の鍵を閉めた。戸締まりを確認して、食堂に向かおうとすると、また、音がした。
とんとん……とんとん……
Tは身体が硬直した。なんだろう、あの音は。急に恐怖に襲われた。ただの気のせいと思おうとしたが、確かに音はしている。無視できずに玄関に戻り「もう一度だけ」とつぶやいて、再び戸を開けた。
さっと冷たい風が吹き込んできた。Tはジャージの衿を寄せながら戸外に顔を出し、周囲を見回したが、やはり誰もいない。うっすらと地面をおおった新雪には足跡もなく、周囲の宿からの明かりが降りしきる雪や無人の道を白や黄色に照らしている。
やはり気のせいだったようだ。やれやれ、と戻ろうとしたとき、誰かがジャージのズボンをつかんだ。
え、とTが下を見ると、幼い子供がいた。四歳ぐらいだろうか。赤いスキー服を来ている。それは普通の子供用のもこもことしたスキー服だったが、どういうわけか、その子供には頭がなかった。首から上にあるべきものが、なにもない。
Tは逃げようとした。しかし身体が思うように動かなかった。ジャージをつかんだ子供の力は強くないようだったが、その弱い力に、どうしてもあがなうことができない。
それでも全身に力を込めて、なんとか戸の内側には戻った。子供もTのジャージをつかんだまま入ってきた。
「ね……ねえ、なにか、ようですか?」
と、Tは震える声で話しかけた。それだけ口にするのもやっとだった。
子供は小さな腕を伸ばして指さした。そこには立てかけてあるスキーがあった。
「スキー? き、きみ、スキー、するのか?」
子供はスキー立てに歩み寄り、若草色のベースにブランド名が入ったスキーを明確に指さした。それはTの板だった。
「も、もしかして、この板に、恨みでも? 滑っていて、草木を折って、それが化けてきたとか?」
しかし子供はじっと板を指さすだけだった。Tは板を手に取った。
「これ、僕の板なんだけど、どうするの? ほしいのか? よければ、プ、プレゼントするよ。でも、まだちょっと使えないと思うぞ。大人になったら、使ってくれるかな……」
しかし子供は、欲しいわけではないようだった。板をTに持たせたまま、外に出ようと引っ張った。
「おいまて、外に行くのか? ちょっと、待てよ、寒いぜ。それに、スキーするんならブーツを履かないと」
すると子供の引っ張る力が止まり、ジャージから手を離した。そしてじっとたたずんだ。
「まじか? おまえ、スキーしたいのか?」
首から上がない子供は、意思表示の手段がなく、そのままじっとたたずんでいた。が、どうやら本当にそうしたいらしい。
「やれやれ」とTはつぶやいた。「じゃあ、スキー服、着てくるから、少し待ってな」
それを子供が理解したからか、急に金縛りのようなものもすっかり解けた。Tは早足で階段を上がり、男たちがそれぞれ布団にくるまって寝付いている部屋に入った。
皆に知らせた方がいいのか……声がのど元まで出かかったが、声を出そうとすると、なぜか急に罪悪感のようなものが襲ってきた。『これは自分の問題』という、直感的な何かだった。
なにせ、頭のない子供は、迷わずTのスキー板を指さしたのだ。何らかの意図を持って、ここに来たのはまちがいない。
ヘタに話をこじらせると、もっと深刻な『たたり』になりかねない、最初が肝心……そう考えたTは、ジャージからニットの下着に着替えて、ハンガーにかけてあったスキーウェアを手に取った。黒いパンツと、青いジャケット。
さらにカバンの上に載せてあったセーターとニット帽を持ち、風防付きサングラスがポケットにあることを確認すると、寝ている人たちを起こさないように廊下に出て、少しきしむ階段を下りた。下に来てから、あらためてスキーウェアを着込んだ。
ウェアを着終えて玄関に出ると、「まだだぞ」と言って、じっとたたずむ子供の横を恐る恐る通り抜けた。グローブとブーツは玄関脇の乾燥室に置いてあったからだ。
こうしてすべての用意を整え、スキー板とストックを手に持って玄関に立ち「終わった」と伝えると、頭のない子供は待ちきれないかのように自ら戸を開けた。
Tとしては、不安がなかったわけではない。しかしスキー服を着てしまえば、もう寒さは気にならなかった。子供が悪意ある存在でないことを祈りつつ、決意をこめて外に出た。
子供はTの前を滑るように進んでいった。子供が進んだところに足跡があるかどうか、Tは確認したかったが、恐くて下を見ることができない。
もし本当に子供が宙に浮いて進んでいるとしたら、それは首から上がないこと以上に、超現実的であることの確かな証拠になってしまう。もちろん、あえて下を確認しなくても、わかりきったことではあったのだが……
もちろんT本人は、空中移動できるわけではない。歩きにくいブーツでガシガシと新雪を踏みしめながら、前を進む子供を追った。
まもなく照明の消えたゲレンデに着いた。子供は滑るような移動のまま、斜面を上がっていった。
Tが斜面を見上げてとまどっていると、子供は催促するかのようにこちらを向いて立ち止まった。やはり登らなくてはいけないらしい。
Tは照明の消えた暗い斜面を眺めた。そして意を決し、気温が下がって固くしまった雪に、ブーツのつま先や脇の角を食い込ませながら登りはじめた。
「どこまでいくんだ?」
弾む息を押し殺して問いかけても、頭のない子供は何も応えなかった。無言のまま、まるで子供の勉強を見つめる教師のように、Tよりも少し先の斜面を進んでいく。
こんなことしていていいんだろうか、とTは登りながら考えた。こんなふうに『ばけもの』に誘われて、深夜の雪山で死んでしまうのだろうか?
雪山で凍死するのは、考えようによっては美しい死に方のような気もしなくはないが、ここはスキー場のゲレンデだ。こんな場所で凍死して朝に発見されるなんて、いかにもバカっぽい。
ほんの数時間前には大勢の人々が滑っていたし、夜が明ければ七時からまたリフトが動く。我々だって、男ばかりだけど、ここで楽しく滑りまくっていた。昔は恋人と来たことだってある……恋人と……
まさか、水子の霊じゃないだろうな?
しかしTが知る限り、彼女が堕胎したとは聞いていなかった。Tに秘密のまま、彼女の側でそのようなことがなかったと、完全には断言できないが、やはりそういうことがあったならば相談くらいはしてくれたはずだ。
一度、生理が遅れて「妊娠したかも」と脅されたことがあったが、数日後に血の付いた生理用品を差し出し「来ちゃった」と苦笑していた。彼女なりにいろんな想いはあっただろうが、妊娠を隠して一人で悩むような性格でないことだけは確かだった。
誰もいない深夜のゲレンデを登っていると、Tは身体がほてり、汗が出てきた。ニット帽を脱いでポケットにしまい、ジャケットのジッパーを半分開ける。
なんだか、これはこれでスポーツっぽくなってきた。そしてTは、前を行く小さな存在に、親しみのようなものを感じはじめた。
『おまえ、友達とか、いるのか?』
Tは心の中で思った。口に出しても、耳のない子供に聞こえることはないだろう。しかし心の中で語りかけたことは通じる……そんな気がした。
『スキーって、リフトで上がって滑り降りるのが楽しいんだぜ。こんなふうに足で登るのって、大変だよ。ていうか、おまえは疲れなさそうでいいな。暗いけど、少し星が見える。雲の切れ間だな。星が見えるって、いいよな。現実って感じがするよ。明かりだもんな』
ときどき休憩をはさみながら、いつしかTはゲレンデの最上部に達していた。気温はさらに低いが、身体はすっかり温まっていた。
リフトにして四本分を登り切ったのだ。大きく息を吸って、半分が星空になっている天空を仰ぎ見た。
雪は止んでいた。星が降るように輝く。
子供はそこで、急にTに抱きついてきた。Tも、気がつくと、子供を抱きしめていた。
『おまえ、スキー、したかったのか?』
子供は、強くしがみつき、無言のまま意思を彼に伝えた。
『いいよ。つかまれよ、いっしょに降りよう。せっかくだから、右の急斜面に行こう。この気温で、新雪となれば、最高のはず。しっかりつかまっとけよ。いっとくけど、僕は、転ぶからな。転ばないスキーなんて面白くないんだ。雪にまみれて、笑うんだ。いくぞ』
言葉通り、Tはリフト降り場を裏からぬけて、右の斜面にむかうと、右手でストックを二本ともにぎり、左手で抱きつく子供を支えながら、急斜面に突入した。経験したことのない軽い雪の感触が足裏から心地よく伝わってくる。
急斜面で数回ターンをしたあと、コブに乗り上げて飛ばされるように転倒した。雪まみれになりながらも、Tは頭のない子供をしっかりと抱きかかえていた。
『ほら、やっぱり転んじゃったろ。わるいな。僕はこういうスタイルなんだ。ハデに転んで、雪まみれになるのが気持ちよくて。で、こうやって寝ころんで、空を見上げる』
子供は一瞬、バタバタと手足を動かしかけたが、Tが転倒しても抱いてくれていることに気づくと、安心したかのようにおちついて、Tの腕を握った。そしてTのジャケットのジッパーを半分下ろし、もぞもぞと中に入り込んできた。
『それがいいな。入っておけ。また、いつ転ぶかわからないし。さて、いくぞ』
今度は少し慎重に、Tはコブ斜面をウェーデルンで決めていく。雪はここでもサラサラと軽く、適度な抵抗を板に残して左右に跳ね散っていく。
『おまえ、あったかいな。どこから来たのか知らないけど、前から知っていた気がする……ほら、もうふもとだな』
さんざん苦労して登った斜面も、滑り降りるとアッというまだった。急斜面を二回の転倒だけで降りきり、後半の緩斜面をゆるやかな弧を描きながら高速で滑降する。
Tは滑りながら意味のない言葉をさけんでいた。無音のゲレンデには何か音が欲しいと感じたからだ。
そしてついに明かりの消えたレストハウスの前まで来ると、Tは板を横にして雪煙を上げて停止した。
呼吸の乱れたTは、いつもするように、自分の滑ってきた斜面を眺めた。すると子供はむずがり、彼から離れようとした。
ジッパーを下げて、子供を解放すると、子供はふわりと飛び降りた。そしてゲレンデ脇の闇に向かって、滑るように移動していった。
『おいおい、また登るのか?』
しかし子供は、今度は上に向かうのではなく、横の木立の暗い闇に向かって進んでいった。そして、小さく、手を振った。
Tは、急に切なくなった。
『おまえ、いなくなる気か?』
子供は手を振り続ける。
Tも振り返した。ゲレンデ脇の闇に溶けるように去っていく子供を見送っていると、Tは自分の中の大切な何かが、この瞬間に消滅していくような、永久に戻ってこない何物かに変質していくような、経験のない奇妙な衝動に襲われた。
いてもたってもいられず、スキーを付けたまま、バフバフとその場でジャンプした。全力でジャンプをくり返すと、足がもつれて転倒し、頬を雪面に当てたまま、ぬれた目を閉じた。
子供が去り、人目のない中で過去を受けとめた彼は、救いのない幻影の中にいるかのように、自制をかなぐり捨てて泣くべき涙をこのときに押し出した。やがて、つかの間の身体のほてりが消えてしまうと、染み入る雪山の夜の寒さが、自暴自棄だったTに、宿の布団に戻るべきことを諭した。
「寒い」と、つぶやいてみた。
わずかばかりの苦笑と共に。
大切なこと、素敵なこと。
終わったこと、続けられなかったこと。
幼い子供には、確かに、頭がなかった。
首から上は、何もなかった。