愛が本当であること

愛が本当であること

 戦場で兵士が人の死に向き合うとき、何を最も強く感じるのだろうか。もちろん多くの死に直面し、すでに細やかな感情は麻痺してしまっているということはあるにしても、それでも、なんらかの真実、逆に言えば『打算的でいられない心象』までが全てなくなっているということは、おそらくはないだろう。なくならないものがあるとしたら、それはなんなのか。

 前線で戦うタカユキは、出発前にカウンセラーのローランド博士から「庭をイメージするといい」とアドバイスを受けていた。いかにもありがちな手法だったが、タカユキの心にはなぜか強く残った。
 博士は言った。できることなら頭で考えるだけでなく、小さな庭の絵をノートに描いてみたり、身近な小物でサイドテーブルに箱庭のようなものを作ってみたりしなさい、と。
 いずれにしても、人は帰る『ところ』を欲するものなのだ。何かの救いを求めるとしたら、それは信仰か、愛か、あるいは箱庭か。

 タカユキは、日系人として仏教に関心を持っていたが、はっきりとした仏教信仰を持っているわけではなかった。子どものころはキリスト教の教会にもよく足を運んだが、クリスチャンというわけでもなかった。
 未婚の彼には、愛する妻子がいるわけでもない。しいていえば見渡すかぎり農場が続くほこりくさい故郷があるだけ。

 つまり、消極的な帰結ではあるにしても、カウンセラーの先生の言ったとおり『庭』に頼ることは、彼にとっていちばんの『帰るところ』なのだった。しかし、それだけだろうか?

 なぜか彼がイメージした庭は、実家の庭とはちがうものだった。想像の世界にあって、まるで仏教の西方浄土を思わせるような、イメージの中の静かな庭。
 彼は戦場のサイドワークのように、イメージの庭を広げ、確定的なものにしていった。小高い丘を登った先に、ぽっかりと開けた空間……その静かな庭には、一角から泉が湧き、清らかな池をつくり、さらに丘の下の森を潤す小川へと続いている。
 ある赤さびた午後に、彼はイメージの庭の真ん中に、一人の女性の存在を感じた。彼の放った弾が住民の女性を殺してしまったからか、とも考えたが、悲鳴を聞いただけで、ボディの確認はできなかった。
 イメージの庭の泉のそばには、白い石でつくられたテーブルと椅子がある。そこに一人の清楚な女性が当たり前のように腰掛けている。
 タカユキは彼女に語りかけ、彼がその日、自分の手でおこなった行為を告白する。すると彼女は、苦笑して、ほほを赤らめる……

 たしかに彼には、実際にその庭を見た記憶があるわけではなかった。少しずつ拡大し、確定され、じつに鮮明なイメージに育っていたか、きっと忘れているどこかで実際に目にしたものだろうと疑ってみたが、やはり具体的な心当たりがないのは本当だった。
 もちろん戦場の彼が、庭をイメージするくらいで完全な救いが得られるわけではなかった。それでも寝る前にカルシウムタブレットをかみ砕き、丘を登った先にある静かな庭と、微笑む女性をイメージしてみると、確実に心のバランスは回復されるのだった。

 冬から続いた四ヶ月の前線勤務の後、タカユキは五月に故郷に戻ることになった。戦況に大きな変化はなく膠着状態(こうちゃくじょうたい)が続いていたから、再び現地に戻らされる可能性は高かったが、とりあえず三ヶ月の休暇は確定された。
 幸運にも彼は身体に大きな怪我はしていなかった。航空機を乗り継いで、なつかしいオイルの匂いのする基地に戻ると、無機質な金額が記された給料明細を受け取り、野に放たれたケニアの野生生物のように、軍施設から解放された。
 しばらくのあいだ、基地からさほど遠くない都安ホテルにとどまった。ローランド博士のカウンセリングを受けたり、ソファーで何時間も音楽を聞いたり、友人たちと飲み歩いたりした。

 帰国して一ヶ月後に、ようやく帰郷する決意をかためた。その一ヶ月で全てが浄化されたわけではないが、ものごとには「頃合い」というものがある。
 平和な列車にゆられてみたくて、彼は途中まで列車の旅をした。そして郷里の近くで最も大きな都市につくと、四輪駆動の車をリース契約で借り受け、麦畑の中の真っ直ぐな農道を走った。

 彼の郷里であるウェストボックスは、昔から日系人が多い町だった。多いといっても、全体からすると一割程度だったが。
 タカユキは実家の敷地に車を止め、家の玄関をくぐると、都会で新しく買ったブーツを脱ぎすて、子供のころから食べ慣れた米の食事を口にして、両親に「ありがとう」と伝えると、ベッドに横たわった。そのまま一週間眠り続けた。

 長い眠りの果(は)てに、彼はクミコの声を聞いた。彼女は三年ほど前に環境保護グループのボランティアでタカユキと知り合った美しい女性だった。
 しかし美しいといっても、優雅なお嬢様タイプではない。肩までの短い髪をピンで留めて、てきぱきと働く活動的な女性であり、三人の子供を育てつつ、積極的に社会活動にもかかわる活き活きとした表情こそが、キラキラと美しく輝いていたのだ。

 今日のクミコは、タカユキが帰ってきたと噂を聞きつけ、お手製のパンプキンパイを持ってきてくれた。聞き慣れた彼女の澄んだ声で「パンプキンパイ」と発せられたのを寝室から耳にすると、タカユキは不思議なほど自然に深い眠りからさめ、現実にもどされた。
 彼がジャージ姿のまま居間に出ていくと、クミコはいつもの明るい声で「おはよう」と挨拶をしてきた。彼はぼそっと礼を言った。
「どうも」
「あーら、よく眠ったみたいじゃないの、タカユキさん」
「ああ」
「まだねぼけてんでしょ」
「うん……」
「しょうがないな。うち来てコーヒー飲む?」
「コーヒーなら、あると思うよ」
 そう言うそばから、台所から母親が淹れているコーヒーの匂いがただよっていた。クミコが手をふる。
「やーねー、冗談よ。でも、元気そうでよかった。手とか足とかなくなって帰ってきたらどうしようかと思った」
「それ、冗談になっていないぜ」
「バカね、冗談じゃないもの。心配しているのは、本当」
 別にあんたが心配したって意味ないんじゃん、とタカユキは皮肉っぽく考えたが、それは口に出さなかった。塹壕(ざんごう)に転がり込むように、古ぼけたソファーに腰を下ろした。
「ふぁー」
「ねえ、だいぶ難しいみたいじゃない?」
「あっちのことか?」
「そう」
「うん、まあな」

 タカユキは頭を後ろにもたれさせて、板張りの天井をにらみつけた。しかしそこにあるのは、飛来する榴弾ではなく、地表を地獄に変える戦闘機でもない。

「少し……疲れた」
「あまり危ないことしないでよね」
「危ないこと?」
「そう。危ないこと」

 タカユキは、急に笑いがこみあげてきた。なつかしい幸福と共に。

「なに言っているんだ、無理だよ。それが仕事だから」
「そ……そうだけど」
「まあ、もしも選んでいいなら、料理でもしていたいけどな」
「そうよ。タカユキさんは料理が得意なんだから、そうしてもらえばいいじゃない。上の人に頼んで」
「無駄だ」
「そうかもしれないけどさぁ」
「ま、誰かがやらなきゃいけないことなら、オレがやるさ」

 母親がコーヒーを持って居間に戻ってきた。マグをテーブルに並べ、ポットからコーヒーを注ぐ。

「あんた、クミコさんが持ってきてくれたパンプキンパイ、食べるでしょ?」
「ああ」
 と、彼はどっちにもとれるうなり声を発した。
「美味しそうよ。もっと嬉しそうにしたら?」
「ごめん。オレ、まだ、寝ぼけてるんだ」
「はい、コーヒー。よく寝たんだから、目をさましておくれ。パイも切って皿にのせてくるから、ちょっとまっていてね」
「ああ」
「もー」と、クミコはわざと深いため息をついた。「私が料理下手なの知っているから、そんな反応!」
「いや、そんなことないって」とタカユキは小さく首を振り、優しく言った。「ほんと、まだ半分寝ているんだ。ごめんな」

 疲れている。
 消耗している。
 睡眠薬と神経ブロック。
 耳が壊れたかどうあかもわからない爆音。
 止血処置。重い荷物。繰り返される衝撃。爆破。埃と血。
 銃声。悲鳴。崩落。
 あきらめ。

 タカユキが前回の休暇のとき(それは彼がクミコと知り合ってからちょうど二年目のことだった)ボランティアグループのサマーパーティでのことだった。クミコは赤ワインの入った紙コップを右手に持ったまま、ふと悟ったように彼に語った。
「私と旦那は、まあ、縁だからね。大切にしますよ。ただね、本当に好きな人は別にいるかもしれない。でも、それは誰にも言わないの。絶対に。死ぬまで言わない。相手にも言わない。私の心の中にしまっておくの。それはそれでいいの。やっぱ家族は一番大切だしね」

 親しい仲間とのパーティだったから、彼女はそういうことも言えたのだろう。タカユキも、逆の立場で、うち明けた。
「自分はまだ、本当に好きになった人は、いないのかもしれない。女性と付き合ったことは何度かあるし、片思いも学生のころにあった。でも、どれも本当の愛とは違う気がする。信頼して二人で歩んでいくような、そういうものが、本当の愛だとしたらな」

 タカユキは遠くを見つめるように語りながら「オレたち二人はずいぶん違うな」と付けくわえた。そして苦笑した。
 クミコはすでに結婚して、子供も三人いる。その上、本当に好きな人まで別にいると言う。タカユキは結婚もしていないし、本当に好きな相手もいない。ただ戦場で、命ばかりを奪って。

 クミコはパンプキンパイを食べてしまうと、立ち上がって「さ、帰ろうかな」と長いプリーツスカートをぱたぱたとさせた。
「オレもだいぶ休んだし、今度集まりがあったら声かけてよ。きっと行くから、手伝いとかなんでもする」
「そうさせてもらうわ。ちゃんと来なさいよ。おかあさん、美味しいコーヒー、ありがとうございました」
「あらあら、こちらこそごちそうさま。またいつでもよってね」
「ねえ、ところでタカユキさん」とクミコはソファーで脱力している彼に向かって言った。「ヒマなら、少しドライブでもする?」
「え?」
「町の変化を解説してあげるから」
「そんなに変わっているとは思えないんだけど。半年で何かが変わる町か?」
「やれやれ、おもむきのない。せっかく私がさそっていんだから、髭剃って着替えして感謝してついてくるのが礼儀ってものじゃない?」
「は、はあ……まあ、いいけど……」
「『まあいいけど』じゃない! 『ありがとう』でしょうが! そういう礼儀、軍では教えてないの? もー、まったく。私、車で待っていますから、急いでよ」

 クミコが片手をあげて出ていく。タカユキは「あいつ、何か見せたいものでもあるのかな」とつぶやいてソファーから立ち上がった。
 母親はぬれふきんでテーブルを拭きながら言った。「あんたがいない間もがんばっているみたいだったから、何か見せたい成果があるのかもしれないね」
「ボランティアで?」
「そうよ」 
「母さんは、知らない?」
「私はボランティアのことはさっぱり。クミコさんとこの下の子が小学校に入ったのは知っているけど、その程度」
 タカユキはシェーバーでササッと髭を剃り、ジーンズとボタンダウンシャツを身につけて外に出た。もう夕方に近い時刻だったが、六月の太陽は真昼のようにクミコの白い小型車を熱く照らしていた。

 タカユキは、窓が開いたままの助手席に乗り込んだ。そして「みんな、どう?」と質問した。
 クミコは車をスタートさせると、肩をすくめた。
「あまり変わってないと思う」
 やっぱりそうじゃん、変わってないんじゃん、とタカユキは思ったけれど、口には出さない。車は麦畑をつらぬく田舎道から、舗装された州道に出て、スピードを上げた。
「で、これから、どこに行くんだ?」
「そうねー、どこ行こうか?」
「おいおい、決めてないのかよ」
「うそ。ちゃんと決めてあるわよ。少し遠いけど、いい?」
「オレはべつにいいけど、そっちはどうなんだ」
「ははは、なんとかするよ。たまにしかないことだしね」
 クミコは子供が通う学校のことなどを饒舌(じょうぜつ)に語りながら、アスファルトのひび割れが多い道を30分ほど制限速度無視でぶっ飛ばした。管轄のポリスはクミコの義理の兄だったので、まあそういうことも許される。

 やがて丘陵地帯に近づいていった。その丘のふもとのハドソン・フィールドと呼ばれる私有地の入り口にさしかかると、いったん車を停止させた。
「ここよ。前は立ち入り禁止だったでしょ。でもオーナーが死んで、今は地区の管理になっているの。私、監視員の資格があるから勝手に入ってもいいわけ」
「本当に?」
「疑っているの?」
「いや、疑ってはいないけど」
「まあ、こういうのは『勝手に入る』とは言わなくて、パトロールの一種よ。たまに確認にくるのは仕事のうち。それに今日はホンモノの兵隊さんがいっしょだから怖いこともないし」
「よせよ。武器なんて何も持っていないぜ」
「でも、強いんでしょ?」
「まあ、弱かったら、帰ってきてないよな」
「よかった」
「よくないさ。誰かが勝てば、誰かが負けるだけだ」
「そっか。ごめん」
「いや、こっちこそあっちの話は苦手で、ごめん」
「ねえ」
 とクミコは彼を助けるように、明るい話題に切り替えた。
「ここね、とてもきれいなところがあるの。一見の価値ありよ。きっと驚くから、早く行こう」

 二人はいったん車を降りて、木製のゲートを開けた。クミコがアクセルを踏んで進入させ、タカユキはゲートをもどしてから助手席に戻った。
 そこからさらに半キロほど、荒れた私道を進んだ。突き当たりに残っていた無人の大邸宅の脇に車を止めると、クミコはエンジンを切った。
 二人は車を降りて、小道を進んだ。邸宅を回るように、砂利が敷かれた小道が、背後の丘にむかって続いていた。生い茂った庭木の中に続く歩道は、さながらジャングルの迷路のようだった。

 丘の上まで来ると、パッと視界が開けた。そしてタカユキは、クミコが予想したとおり、真顔でビックリした。
 そこにあったのは、泉のある庭だった。ローランド博士のカウンセリングで教えられ、戦場でイメージしてきた庭そのものが、そこにあった。

 彼は息が止まるほど驚いた。目の前にあるのが、心の帰る場所だったのだ。
 むしろ自分はすでに死んでいるのではないか、と錯覚しそうになった。意識が薄れ、よろけかけた彼を、クミコの明るい声が支えた。
「どう、いいでしょ? 手入れしてないから庭木はすっかりぼうぼうだけど、泉のところはいい感じ」
 そこには本当に泉があり、白い石のテーブルと椅子までも、イメージと同じようにそこにあった。
「なぜ、ここに……」
「やっぱり驚いたでしょ?」
「ああ」
「私も驚いた」
「ていうか、なんでクミコが驚くんだ?」
「だって、初めてのはずなのに初めてじゃないと感じたから」
「同じだ」
「でしょ?」
「それはそうと、なんで君がそういう予想をしているんだ?」
「理由なんてないよ。ただ、そうだろうなぁと思って」
「それじゃあ説明になっていないのだが」
「ていうか、私はなんとなくそうなるかなぁ、って思って連れてきただけなのに、あなたの反応がダイレクトすぎ。そんなに驚かれたら、こっちがとまどうじゃない。もっと素直に『きれいなとこだなぁ』って、叙情的関心をしてもらいたいものだわ」
「まあ、そうだけど……」
「あなたこそ、どうしたのよ。ヘンよ。説明してよ」

 タカユキは少し迷ったが、クミコが相手なら、真実を語るのはかまわないと考えた。

「オレ、カンウセラーに指導されたんだよ。戦場で心が壊れそうになったら、庭をイメージしなって。でも、うちのカボチャ畑とかイメージしてもゼンゼンしっくりこなくて、何となく思い出したのが、この風景だったんだ。これと、同じもの。そっくりだよ。泉があって、白い石のテーブルがあって。なぜだろう。そっくりすぎて驚いた。小さいときにでも、来たことがあったのかな?」
「たぶんそうじゃないかしら。私も、理由はわからないけど、見覚えがあったから」
「不思議だ。少なくとも、オレは一度も来たことはないはずなのに。いや、確かに来てない。ていうか、ここのオーナーって、メチャクチャ気難しくて有名だったはずだよな? 近づくなんてありえなかった」
「オーナーは、よそから来た人だったのよ。もともと昔は、ここで結婚を誓うとか、そんなことをする習慣があったらしいわ。原住民時代からの聖地ってことで。ねえ、もしかしたら、私たちが見たことなくても、親とか、その親とか、ここに来て、祝い事をして、その記憶が遺伝子的に受け継がれたのかも」
「ありえるか、そんなこと?」
「だって”私たち”は、とりあえず、かなり敏感な方だから。……でしょ?」

 タカユキは、それには素直に頷いた。「それはまあそうだけど」とつぶやきながら。
 クミコとタカユキの二人は、性格も、生き様も、全く異なっている。知り合ってからも、まだ数年しかたっていない。
 しかし何かを感じる”敏感さ”においては、なぜか共通するものがあった。ボランティアの仲間の一人が事故で死んだときも、クミコとタカユキだけは、知らせを受ける前に病院にかけつけていた。
 二人には、自分でもよくわからないながら、そういう不思議な感覚があった。同じものを共有しているのではなく、べつの成り立ちでありながら、とても似たなにかを共有していた。

「あ、でも、勘違いしないでよ。ここが祝いの場だからって、私は別にあなたとどうこうってことは全く考えていませんからね」
「どうこうって……なにが?」
「そのぐらい自分で考えなさいよ。いちいち質問しないで」
「う、うん……」
「ほんと、あなたはときどき自信なさげで、頭の回転が鈍くて、本当に戦場で戦っている兵士なのかわからなくなるわ」
「しょうがないよ。今、オフだし。それに、見ろよ。つらいときに頼りにしてきたものか、ここに本当にあったんだぜ。ビックリだぜ」
「『ビックリ』じゃなくて、まあ、普通は『ステキ』って言うところでしょうけどね」
「ただ、どうだろう」と彼は自問するように続けた。「こういうものを、実際に見たあとでも、まだ、今までイメージしてきた庭は、よりどころになるのかな」
「前よりもはっきりとよりどころになるんじゃない?」
「だといいけど……」
 彼が言葉を濁すと、クミコは急に不安げな表情を浮かべた。
「もしかして、来ない方がよかった? 私、よけいなことしちゃったかな」
 タカユキが返事に困る。するとクミコは先に結論づけて「ごめんね、ゆるして。私、バカだった」と謝った。
「いや、ダメってことはないと思う」
 タカユキは、自分の迷いを取り消すように、しっかりと伝えた。そして近くの石に腰を下ろすと、手をのばして泉の水にふれた。
「冷たいな。きれいな水だ」
「湧き水だからね」
「ああ」
「タカユキさん」
 彼女は立ったまま、手を後ろに回して、なにかを言いにくそうにした。
「ん?」
「あの……私……」
「なんだ?」
「いや、えっと……」
 ふと、時の流れが止まったような感覚が二人を包みこんだ。強い日ざしも、強い風も、銃声もない、ぽっかりとした夕暮れの中で。
「まぶしいね」
「え?」
「夕日」
「そうか?」
 視線を西にむけたタカユキは、その夕日がすでに目に痛いほどまぶしくはないと感じた。昼の太陽よりはずいぶん弱まっている。むしろ、その黄金のような美しさこそが、まぶしい、ということなら、その通りだと思った。
「君も、座れば?」
「私……えっと、ほら、そろそろ、帰ろうか、と。だって、ほら、晩ご飯のしたくとか、あるし」
「主婦だな」
「悪い?」
「悪くはないよ。むしろ、尊敬する。今度、子供たちもここにつれてきたらいい」
「冗談じゃない。あいつら、うるさいだけなんだから」
「じゃあ、旦那さんと二人で」
「あいにく、そういう人じゃないの、うちの旦那は。何も感じない人。退屈するだけよ」
 そのストレートな答えに、タカユキは苦笑した。そして首を振った。
「しかしオレでどうなるという問題でもない気がするけど?」
「わかっているわよ、んなこと。ただ、あなたとは、来ておかないと、来れらなくなっちゃうと困るじゃない」
「え?」
「いつ死ぬかわかんない人なんだから」
「予感か?」
「バカ。縁起でもないこと言わないで。予感じゃないわ。そうじゃなくて、ただ純粋に、本気で心配しているだけ。ちゃんと帰ってきてよ。みんな、待っているんだから」
「待っている?」
「当たり前じゃない」

 当たり前? オレを待つ人がいる?

 そんなの初耳だぜ……と彼は意地をはって反論しかけたが、クミコの断言のしかたが妙に強い意思のこもったものだったので、彼は素直に考え直した。そしてうなずいた。
「そうだな。わかっている。ありがとう」

 タカユキが立ち上がる。二人は泉から離れて、もういちど太陽と大きな空を見上げてから、丘の上の庭を出た。
 木立の中の小道を下り、少し早足で引き返していると、クミコはつる草に足をとられて転びそうになった。タカユキは両手で彼女をささえた。

 二人が手をつないだまま車まで戻ると、クミコの白い車は夕日を受けてオレンジ色に染まっていた。二人はつないだ手を離しかねて、相手を見つめた。

 タカユキとしては、主婦であるところの彼女の立場にあわせた表面的な話題、つまりクミコがこれから仕度をする夕飯や、さわがしい子供たちのことを話題にしようか、と考える一方で、彼女が言い出しかねていたことの『すべて』が、つないだ手を通して、真摯に、電撃のように、そしてなによりもあたたかく伝わってきてしまった。その不思議な感覚に嘘がないことは、彼自身がいちばんよくわかっていたから、嬉しいような、悲しいような、複雑な気持ちになった。

 一つ確実だったのは、二人がもっと早くに出会っていたら、別の人生になっていただろう、ということだ。もしそうであったならば、州からの招集依頼に応える者のいなかったウェストボックスで、タカユキが自ら手を上げて任を引き受け、異国の場におもくことは、なかったかもしれない。

 戦場の血で染まった手……はっと気がつき、タカユキはあわててクミコから手を離した。
「ごめん」
 クミコは場を取りつくろうように「ははは」と苦笑した。
「私、なんか、ヘンな緊張しちゃったな」


◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 タカユキは、次に戦地に戻り、木陰に逃げ込んでマシンガンの銃弾を避けて目を細めたり、撃ち返すべきタイミングでバネが不具合を起こしてあわてて力ずくのリロードしたときなど、無意識のうちに「ははは、なんかヘンな緊張しちゃったな」と、つぶやくようになっていた。
 一度それでうまくいくと、ジンクスとなって続いた。

 目の前で、友軍兵士のヘルメットに手品のようにすっと穴があいたり、狂ったように泣き叫ぶ市民を力づくで押さえつけるとき、人知れず逃げ込む心の風景。そこに今は、当たり前のように一人の女性がいた。

 ショートヘアの、強くて優しい存在。彼を支えてくれるイメージの庭の住人。
 耐えがたい遺体の匂いにつつまれても、記憶の中のパンプキンパイが感覚を上書きしてくれるのだ。甘く、さわやかに。

 タカユキは初めて、異性を愛するということの本当の意味を理解した。戦場でこそ自覚できる愛という正解に、神への祈りと同等の深い感謝すら、彼は止める気にならなかった。

 しかし、彼に正解がわかっても、解決はしない。それが、人の戦争というものだ。

 ある日、タカユキは洗面所の鏡を見て、こう思った……

「考えてみれば、神さまの後出しじゃんけんみたいなものだな。しかし、そういうことなら、オレの『選択』は、間違っていなかったことになる。わるくはないぜ。誰かがやんなきゃいけないことなら、オレがやる。ただひとつ、もしも道を踏み外したことがあったとしたら、あの夕べ、二人で庭を見たこと、ただ、それだけだ」