水こうもりと男


水こうもりと男


 男が縁側に腰掛けて横笛を吹いていた。
 その夜は、ちょうどよい高さに満月が輝き、ススキの穂のような白い光がしんと冷えた畑や雑木林を遠くまでみたしていた。周囲に人のすむ家はない。彼が吹く横笛の音色だけが、よく研がれた刃物のように夜気を鋭く切って、どこまでも広がった。
 やがて、そこに上品な仕草(しぐさ)の女が、どこかから滑るようにやってきた。彼が笛を吹く息を止めると、女は会釈し、弱々しい声で『彼の妻の死』を告げた。

 ……妻の死?

 淡い光の中で、女はたしかに内なる悲しみをいだいている様子だった。男は座布団をすすめた。女が縁側に腰掛けると、彼自身は笛を置いて、台所に向かった。湯を沸かし、湯気の立つ湯飲みを盆に載せて戻ってくる。
「今夜は冷えます、お茶でもどうぞ」
 そう言って熱い湯飲みを女の横に置いた。
「ありがとう」
 彼女はさっそく湯飲みを手に取り、熱い茶を口に含んだ。
「今夜は、突然の訪問で、ごめんなさいね」
 男は黙ったまま縁側に腰掛けた。たしかに『突然の訪問』だった。しかし、そのことが謝罪されるべきことなのかどうか、彼には全くわからなかったし、わからないことにいらだちや不安がともなうということも全くなかった。
「あなたは、奥さんが南の町で働いていらしたことは、ご存じよね?」
 すでによく知っていることを確認するような問いだったが、男は首を振った。
「いいえ」
「知りたいと思ったことは、ございますか?」
 男は頭(こうべ)を垂れて考えてから応えた。
「知りたいかどうかということの前に、そういうことについて知ることは、よいことなのでしょうか? それとも悪いことなのでしょうか?」
「もし、悲しみを感じていらっしゃるなら」と女は丁寧に応えた。「それは、あなたの行為の正しさの証、と、私は思いますけれど」
「行為の正しさ、ですか?」
「そうですわ。行為の正しさです。少なくとも、あなた自身にとっては。だって、お考えになってみて下さいな。自分自身にとって正しいことなんて、そもそも、そんなに多くはございません。いえむしろ、とても珍しいことではございませんか?」
 男は首を横に傾げて『自分自身にとって正しいこと』は、この世の中にどのくらいあるだろう、と考えてみた。しかし、そもそも、正しいか正しくないかの判断からして、どうしたものかわからなかった。かつては人の目を気にして生きていたから、その『人の目』が判断基準になっていたような気もするが、それも今となっては遠い昔のことだ。

 彼は考えることをあきらめて、笛を布でみがいた。笛のさらりとした手触りは、今夜に限っては、なぜか、女性に触れて愛しあう行為を連想させた。男は笛を手に入れて以来、女性の肌に触れたことは一度もなかった。
「僕には、やはり、よくわかりません」
「ねえ、よろしければ、今夜は私をその亡くなられた奥さんだと思って、抱いていただけませんか?」
 女のあからさまな申し出に、男はますます混乱した。
「僕には妻はいないし、過去にもいなかった。それに、あなたをいないはずの誰かの代わりと思って抱くことに、いったいなんの意味があるというのですか?」
「意味などございません。ただのざれ言よ。わかってくださいな」
 女は湯飲みを両手で持ち、月を写すのにちょうどよい角度を探して面白がった。



◆ ◆  ◆ ◆



 笛の音がないと、夜はしんと澄んでいた。虫の音は聞こえていたが、それもまばらで弱々しい。すでに秋の深まりというより、そろそろ冬が近いことの証だった。
「あなたは『二人に別れてしまった男の話』は知っていますか?」
 と、男は来訪者にたずねた。
 彼女は黙って首を横に振り、素直で品のいい表情のまま、月明かりが照らすしんとした夜景を見つめて男の話を待った。
「説明しましょう。なに、わかってしまえば、べつにややこしい話ではないんです。それに今となっては、もうずいぶん昔のことですから。季節がいつだったかさえ、もう、よくは。
 その日、彼は街を散歩していたのです。ふと、ささやかな用を思い出し、家にいた妻に電話をかけました。それは大した用ではなかったのです。ネコの餌はあげておいたよ、とか、クリーニングに出したシャツを取りにいっておいてくれ、とか、そういった本当に何気ない電話のはずだったのですが、その電話で、いきなり妻が指摘したんです。『あなたは四時から仕事だったんじゃないの?』と。
 彼はすっかり忘れていました。もともと忘れ事はよくするほうでしたが、まさか大切な仕事の時間を忘れてしまうなんて。慌てて仕事専用の秘密のアパートに向かい、支度を始めました。
 彼の仕事は役者でした。そしてこの日は、ある政治家に変装し、本人に代わってテレビの討論番組に出演にする予定だったのです。
 男は支度を急ぎましたが、変装は外見と共に、内的な変化までおこなうものでしたから、時間がないからといってさっと一瞬で済ますというわけにはいきません。完成までに二時間はかかるのが常でした。しかしすでに時計は三時を過ぎ、約束の時間までもう一時間も残されていない。タクシーを呼ぶにしても、完成まではとても間に合いそうにない……そのとき、あまりに急ぎすぎたことによって、彼の心だけが、身体と離れて別行動を始めてしまったのです。その証拠に、ちゃんと鏡にもう一人の自分がうつっていました。『おい、何やってんだよ、早くしろ』と、支度を急ぐ彼は、もう一人の自分に言いました。『もう一人の自分』は冷蔵庫を開けて食べものを探しはじめました。『おいおい腹が減っているのはわかるけど、時間がないんだぜ』と言葉を荒(あら)げると、冷蔵庫の前にいた『もう一人の自分』は振り返り、ひどく悲しげな表情をしました。もちろん彼にも、その気持ちはわかりました。そもそも、政治家のものまねなんて、やりたくはなかったのですから。
 二人に分かれてしまった彼は、変装を終了した『身体』だけがテレビ局にむかい、変装の完成しなかった『心』は、秘密のアパートに残りました。アパートに残った『心』が、テレビをつけて、番組中に登場した政治家姿の自分を見ていると、その『身体』は何者かによって暗殺されてしまいました。容疑者はすぐに取り押さえられましたが、腹部を刃物で貫かれた『身体』は、床を血の海にして、あっという間に死に至りました。生放送中だったテレビはパニックとなり、他の局も急きょ予定を変更し『ある放送局』で起きた殺傷事件を伝えました。
 やがて、アパートでテレビを見ていた彼の心のもとに、電話がかかってきました。それは政治家本人からのものでした。
『ありがとう。予定どおりにことは運んだ。礼は東京駅のコインロッカーに入れておく。後日、キーを入れた郵便物が届くはずだ』
 それから三日後、彼は送られてきたキーを手に、東京駅に向かいました。探し当てたコインロッカーには、一本の笛が入っていました」


◆ ◆  ◆ ◆



「あなたの問題点については」と、女は首を傾げて、男の顔をのぞき込むようにしてつぶやいた。「やはり、あなた自身が、一番ご存じのはずよね?」
「さあ、どうでしょうか。僕にはよくわかりません。正直なところ、今となっては、笛の吹き方以上に知っていることは、何もないように思えてしようがないのです」
「では、例えば、その笛を、この湯飲みの中に映った月に入れてくださる?」
「湯飲みの中の月?」
 彼女は「ほら」と言って、男に湯飲みを差し出した。ずいぶん口に運んだように見えたが、お茶はほとんど減っていなかった。
「別にかまいませんけど、どうせ、さきっぽだけしか入りませんよ?」
「いいから、やってみて」
 彼は女に顔を寄せ、二人で茶に映った月を見られる姿勢になり、そこに笛を差し込んだ。笛はそのまま、なんの抵抗もなく、根本まで入ってしまった。
「どうしてこんなに小さな湯飲みに笛がまるごと入ってしまうのだろう?」
「なぜだか、知りたい?」
 女の生暖かい息づかいを彼は耳元に感じた。
「そうですね。知りたい」
「それはね、あなたの奥さんが『亡くなられた』からよ」



◆ ◆  ◆ ◆



「私の名前は、水こうもりというのです」と、女は彼から離れ、思い出したようにうち明けた。「初めて聞く名前かしら?」
「全く初めてですね。聞いたこともない」
「いい名前でしょ? 水こうもり。私の名前」
「いいというか、むしろあやしげで、いやらしくて、好き嫌いは別れるような気がしますね」
「あなたは、とても寂しそう。今夜は私が、あなたの笛を吹いてさしあげましょうか?」
「そういうことが、あなたの役割なのですか、水こうもりさん?」
「役割? いいえ、役割なんかではありません。ただ、そういうこともあっていいかな、と思いましたの。大切な方の、大切なものを、大切にしたいから」
「あなたはずいぶん親切な使者なのですね」
 男は険しい表情をしたが、女は同じ調子で話をつづけた。
「親切な使者であることは、悪いことではないと思うわ。おたがいにとって、よいことであれば、なおさら」
「それは思いこみだ、あなた自身の」
「あら、怒ったの? どうして?」
「理由なんて、ないよ」
 彼はぞんざいに肩をすくめた。
 女はうっすらと笑みを浮かべた。
「きっと、私では不満なのでしょうね。大した男でもないくせに」
「ルーマニアのコウモリは人の血を吸うと言うが、あんたも今夜は僕の血を吸うか?」
「いいえ、そんなことはいたしません」
 女は座ったまま姿勢を正した。
「最初にも申しましたが、今夜、私は『あなたの奥さんの死』をお知らせにまいっただけでございます。あのお方は、せっかちでわがままなところもございましたが、ユーモアの好きな前向きな女性でした。本当の意味で、あなたを愛していたのです。おそらく、あなたが考えているよりも、ずっとずっと深く」
「いいえ。僕に妻はいないし、いたこともないという話は、たった今したばかりではないですか」
「そうかしら?」
「妻の記憶など、僕にはなにもありません」
「では、もう一度、その笛を吹いてみてくださいな。きっと、答えは、そこに」



◆ ◆  ◆ ◆



 女は現れたときと同様、音もなく姿を消した。
 品のいいようでいて、どこかせっかちでわがままな人だった。悲しい知らせを届けてきたはずなに、よく笑いもした。
 いずれにしても、使者は使者だ。
 男は心を静めて、再び笛に鋭い息を送り込んだ。
 夜気を割く音色が月明かりのもとに広がる。
 あるいは、笛の音に踊らされてきたのは、自分自身だったのだろうか、と彼は考えた。
 しかし、そうではなかった。結局のところ、笛によって踊らされてきたのは『時間』だった……と、考えがいたったとき、彼は急に力がぬけて楽になった。身体がふわっと浮き上がるほど、大きく楽になった。

 笛の音に踊っていたのは『時間』。
 なるほど、そのとおり。
 しかし、だとしたら、どうすればよいのだ?
 彼は考えたすえ『悲しむ』ことにした。
 全ての答えが悲しみに収束すると断ずるわけではなかったが、悲しみという平凡な言葉について思ってみると、今夜は笛にも茶にもよく馴染み、違和感がなかった。

 まあ、今夜は水こうもりと出会ってしまったのだ。水こうもりと出会ってしまったからには、しかたがないこともある。
 縁側に腰掛けた男は、目を細めて、白い秋月のもと、再び凛とした笛の音を響かせた。