菜々子の飛翔

菜々子の飛翔

 僕は高三の秋だというのに、なんとなく『焦り』というものがなくて、まわりのクラスメートは推薦とか、論文入試とか、いろいろ具体的に動き始めていたりもしたけど、自分はそういう姿に接すると、かえって反抗的に中原中也などを読みたくなってしまうのだった。
 文芸部員らしさ、と言えば、まあそうだけど、別に部活と関係なくても、そもそも受験なんて春になれば必然的にやってくるわけだし、勉強は普段からやっていないわけでもないし、出たとこ勝負で結果を残すほうがいさぎよいし、フェアだし、ずるくないし、というのが自分なりの論法だった。
 まあ、そのへんのとらえ方は人それぞれだろうけれど、僕としては『焦る』というのは、とりあえず違うかな、って。
 まあ、実際のところはマイペースなだけ。

 しかし、そんな自分でも、いちおう一学年下のガールフレンドはいたりするのだ。もちろん二次元ではない。リアル女子にして、善良で朗らかな菜々子。
 とはいえ、まだ僕たちの関係は、大人たちが言うところの「つきあっている」とは意味が違うし、じつは手だってにぎったことがない。どうして僕たちが親しくなったのか、本当のところは自分でもよくわからなかったりするのだが、それでもいちおう彼氏彼女の関係であることは、若輩高校生なりに真面目に自覚しているところではある。

 菜々子は演劇部に所属している。しかも、よくある名前だけの部員などではなく、どうどう中心メンバーだ。先の文化祭では主役を演じてしまった。濃い化粧に、黄色いひらひらのワンピースを着て。
 体育館でおこなわれた演劇部の上演には、僕も緊張しつつ足を運んだ。ステージには事務椅子が数個置いてあるだけ、いかにも高校演劇らしいシンプルなセットだった。
 それは会社の事務室を想定したもの。そこで働く女上司は、わがままほうだいの悪女。立場の弱い非正規社員たちをこき使う。しかし、あるとき労働者たちの反撃(レジスタンス?)にあい、女上司は牢屋に入れられる。ところが本人は全く反省していない。全て日本社会のせい(この舞台を見ている観客一人一人のせい)にして開き直る……という、わりと社会派の内容だった。そのやりたいほうだいの悪役女上司が、菜々子だったのだ。
 高校生らしくないかかとの高いパンプスをはいて、ガツガツと威厳を振りまく最低の女。その大胆な存在感に、正直、僕は圧倒させられた。普段は、にこやかにしている善良な女子だし、舞台の台本については、僕も多少は相談にのってきたことだけれど、いざ本番となり、弱者たちを大声でなじる遠慮ない悪女っぷりを見せつけられてしまうと、もしかしてこの女とは別れた方がマジで得策なのではないか、と内心考えてしまうほどだった。

 悪女に虐げられた者たちは、必至で訴えた。
「……私たち、非正規で時給が安く、誕生日なのに子どもにゲーム機も買ってあげられないのです」
「私はアルバイトで、もっと時給が安いの。買ってあげたいです、ゲーム機」
 すると菜々子は腕を組み、見下した態度で言いはなつ。
「あんたら、非正規の立場で最新ゲームを買おうなんて100年早いんだよ。バイトなら、1000年早い。私だって古いのしか持ってないのよ。むしろ、ゲームのしすぎはバカになる。目にも悪い。買ってあげない方が愛ってものよ。だからこそ、私はあなたたちの子どものためを思って、たっぷり働いてもらっているの。仕事が多いのは、あなたたちのため。全くモンク言われる筋合いじゃない。さあ、わかったら、とっとと仕事に戻れ。書類は山積みだよ!」

 腹立たしい女だ。正社員の立場を利用してやりたい放題。その悪女っぷりに、逆にひきつけられる。こんなに人を引きつける演技ができる女優が、地味な僕なんかの彼女でいいのだろうか?
 ちなみに女優とはいっても、はっきり言って菜々子は容姿端麗(ようしたんれい)というわけではない。どちらかというと細くちっちゃな目や、ぷっくらした頬は田舎っぽい印象だし、身長も平均よりかなり小柄だ。にもかかわらず、彼女は、たしかに常人にはない強いオーラをまとっている。少なくとも僕には最初からそれがわかった。それが僕だけにわかることなのか、もっと広く認知されうるスター性なのか、そこのところはもう少し人生を進んでからでないと、はっきりしていかないことであるとしても。
 文化祭も無事に終わり、すぐに中間試験がやってきた。悲喜こもごものうちに試験も終わり、僕にとって高校生活最後の二学期、その前半をかざる二大イベントが終了した。


◆ ◆  ◆ ◆


 そして、のんびりうららかな十月、土曜の午後となった。
 僕は食堂の売店で、おにぎりと紙パックのお茶を買ってきて、何人かがだらだら残っている教室に戻り、昼食をぱくつきながら本を広げた。リチャード・ブローティガン『アメリカの鱒釣り』、ヘンなタイトルだがべつに釣りの本ではなく文学なのだ。なんか意味もわからず背表紙のタイトルに惹かれて図書館で手にした一冊だったが、その「意味もわからず」のところが、作品の中でも中心テーマになっているみたいな。
 まあ要するに自分なりの『菜々子待ち』である。
 土曜日はいっしょに帰る、というのが我々の付き合いの基本要素だった。それがほとんどすべて、と言いきってしまったら正しくはないと思うが、しかし実際のところはわりとそれに近い。土曜だけは二人で話ながらゆっくり帰る。そのかわり菜々子が部活の平日はきっちり勉強しよう、というのが自分なりの戦略だった。いや、しかし、もちろん今も勉強関係の本を広げるべきとわかっていながら、こんなときに限って勉強以外の読書がはかどってしまうのはなぜだろう。

 やがて菜々子がやってきた。ドタドタうるさいわけではないが、廊下から響いてくる軽快な足音や、素速く扉を開ける音で、僕には明確にわかってしまう。菜々子は下級生らしく一礼して、教室に入ってくると、さっそく僕の机のそばに来て「光橋(みつはし)センパイ、ちょっと相談」と言ってきた。
「やあ、早いね。もう部活終わり?」
「今日は用事がある人多くて、ミーティングだけ。でね、時間もあるし、ちょっと、おりいって相談したいことがあって」
「あらたまって、なに?」
「驚いたり、笑ったり、しないでくださいね」
「内容によると思うけど」
「センパイ、私、はだかになりたいの」
 それは小声ではあったけど、演劇部員らしい明瞭(めいりょう)な発音は残酷なくらい聞き違えようがなかった。
「え?」
「はだか。だめ?」
「どこで? 風呂か?」
「ちがう。学校で」
「なんでだよ」
「どうしても。あ、でも、エッチなこと、考えないでくださいよ。これは一種の『表現』なんだから」
 表現?
 確かに菜々子は真面目すぎるほど真面目な顔をしており、僕をからかっているわけではなさそうだ。
「いや、なんだかそういうの、時代錯誤(さくご)の芸術っぽいんだけど」
「時代なんて関係ないのです。『気持ち』の問題。わかります? 悟りというか、ひらめきというか。これ、確かにヘンな発想なのは自覚しているんだけど、でも、なんとかひとつ乗り越えないと、私、どうしてもこの先に行けない感じなのです。自分でも困っちゃって。だから、こういうことは、まず、センパイに相談しよう、と」
「いや、まあ、その相談してくれる気持ちは嬉しいけど、僕にどうしろと?」
「なにかいいアイディアってないですか?」
 僕はため息をつき、考え込んでしまった。身体の触れあいもない僕たちが、全てをすっ飛ばして、いきなり『はだか』ですか?
「じゃあ、どこか、誰もいない空き教室を見つけて、僕が外で誰も入らないように見張っているから、その中で思いっきりやりたいことやる、ってのは?」
「す、すばらしい! さすが、光橋センパイ! よろしくお願いします!」
 いいのかよそれで、と僕は苦笑したけれど、とりあえずいいらしいので、昼食のゴミを捨てて、本をカバンに詰め込み、帰り支度を完了して席を立った。

 とりあえず僕のクラスは、何人か勉強を始めていて長くなりそうだったので、他のクラスを探してみた。しかし完全な空き教室は見つかりそうになかった。土曜の午後なんて、ほとんどの生徒は帰るなり、部活に出るなりしていなくなっているのに、なぜかどこの教室も数人だけ残っている。気持ちはわかる。家に帰るより、学校の机で勉強をした方が集中できるというタイプの人もいるだろうし、学校でダラダラするのが青春、という人もいるだろう。そこは僕もわりと共感するところだ。制服のまま、ずるずる時間を過ごす、それはそれで貴重なひととき。みなさんの気持ちは理解してあげますが、しかし無人の教室が一つも見つからない、というのはこれいかに。
「だめっぽいな。夜にするか?」
「えー、夜は寒いよ」
 菜々子のあまりにも現実的なセリフに、僕は素直に笑った。
「しかし、今日はどこも無理っぽい。演劇部の部室だとダメなわけ?」
「あそこじゃ狭(せま)すぎて気分が乗らない。それに着替えたり演技したりは、いつもやっていることだから。それでいいなら、最初から部の人に相談しています。でも、私が望んでいるのは、そういうことじゃないんです。説明しずらいけど」
「ま、そうなんだろうけど」
「そうだ! センパイ!」
 菜々子のつぶらな瞳(ひとみ)がデンジャラスな輝きを発した。
「屋上っていう手があると思いません?」
 僕は条件反射的に眉を寄せた。
「あのさぁ、僕たちがやろうとしているのは、お日様受けて弁当食うとか、そういうことじゃないんだぜ。菜々子が屋上ではだかになったら、みんなに丸見えじゃん。僕には防ぎきれない」
「でもでも、よーくイメージしてみてくださいよ。別に無理に防がなくても、案外、よそからは見えない気がしません? それに、普段はなーんにもない屋上で、たまたま誰かがヘンなことやったって、誰も気がつかないでしょ。ちがいます?」
「いや、やることによると思うけど。女子がはだかで立っていたら、絶対気がつくって」
「ま、とりあえず現地調査しません? ね、いいでしょ?」
「う、うん……まあ、見るだけなら……」

 菜々子にせかされて屋上にむかった。4階建ての本館校舎、さらにその上。屋上へ出る扉には『関係者以外立ち入り禁止』の紙が貼ってあり、ドアは鍵がかかっていた。しかし、脇の窓からなら出られないこともない。実際に誰かが乗り越えた足跡(あしあと)が窓枠近くの壁にけっこうたくさん残っていた。窓を開けると、確かにおあつらえ向きの空間が目の前にぽっかりと広がっていた。小柄な菜々子は、その高さのある窓から一人で出るのは難しかったから、僕は彼女のおしりを肩で押し上げて外に出る援助をした。そして僕も外に出た。

 誰もいない屋上は、ポカポカとした秋の陽気に満ちていた。菜々子は細い目をますます細めて「ほら、なんだかいい感じじゃないですか!」とクルクル回ってはしゃいだ。
 確かにそこは、本当にいい感じだった。脇の方にはエアコンの屋外機とか、用途のわからない機械がごちゃっと存在していたが、中央にはでっかくコンクリート床の空間があって、正直、こんな広い空間があるなら利用しないともったいない、とまで思った。
 四方は高いファンスに囲まれていた。ビニール巻きの針金が格子状(こうしじょう)に編んであるやつ。それがなければもっと視界が良かったはずだが、学校の安全対策としては欠かせないのだろう。とりあえずフェンス越しながら、近くの住宅や駅の方のスーパーなどが、ここからは一望できる。
「ね、私、ここでやってみたいと思います。ご許可、おねがいしますっ!」
「き、許可? 僕が?」
「うん。だって、ほら、いちおう、私たちって、そういう関係だから」
 言葉はむちゃくちゃだったが、言いたいことはわかる、うん。
「僕は別に、菜々子が『どうしても』というなら、止めないし、むしろ協力するよ。ただ……」
「何ですか?」
 一瞬、菜々子が不安そうに僕を見つめた。そう、まさにその不安に乗じて、今こそまともな主張をぶつけるときだ。
「ほら、僕たち、約束したじゃん。こんな時代だからこそ、あえて卒業までなにもしないって。意義深いものだと思うよ。そういう純粋な約束のできる相手がいるってことが、僕は心の底から嬉しいし、むしろ、べたべた付き合っているやつより『勝っている』と思うくらいだ。でもね、そういう自分らの前提がありながら、いきなり全部すっ飛ばして、はだかになるって、やっぱ、どうよ」
「う、うん……、難しいな……、せ、説明できないっす……」
 菜々子の困った姿、それは妙にかわいくて、それを見ただけで、僕は意味もなく十分満足な気持ちになってしまった。
「いや、菜々子には説明できないことがいっぱいあるのは、僕もけっこう知っているから、それはいいんだけどさ。むしろ、こっちこそ、ごめん。水をさすようなこと、言っちゃったな。そもそも菜々子が望んでいるのは、そういう『水をさすようなこと』を、全部、ふっきりたいんだろ?」
 菜々子は口元をキリリと引き締めて、大きく頷いた。やはり、図星、だったか……
「だったら、いいよ。もう余計なこと考えるの、一切、やめ。今日という日は、今日しかないんだ。全力でやりたいことやれよ。僕は100パーセント応援しているから」
「ありがとうございます!」
 菜々子の感激が伝わってくる。それはいいのだけれど、さて、次にどうするのか? 僕はここにいていいのか? どこかに隠れて、目をふさいでいるべきか? あるいは誰も見ないように、あの窓のところで見張っているべきか?
 そんな僕の迷いをあざ笑うかのように、菜々子は早くも制服のボタンを外し始めた。強い決意と、優しい微笑みを、顔に浮かべて。
 ヘンな話だけど、そこまで堂々とされてしまうと、僕も焦(あせ)る気持ちが吹き飛んでしまった。これはこれで、きっちりと受けとめてあげなきゃいけない現実なのだ。たぶん、一般的にはそうとうクレイジーなことを始めているわけだけれど、そんな彼女を受けとめてあげられるのは、日本広しといえども、たぶん僕だけだろうし、そういう『役』をもらったことを、純粋に嬉しく感じた。菜々子の下着やはだかを見られることが嬉しいのではなく(むしろ、それは嬉しさと言うよりもプレッシャー)その完全な信頼こそが、なによりも大切な喜びだった。

 紺色(こんいろ)のベストを脱いだ菜々子は、丁寧に織りたたんでから、すっと僕に差し出した。僕は賞状を受け取るときのように両手を前に出し、彼女のぬくもりのある服を手に受け、丁寧に頭を下げた。菜々子も僕のノリをまねして、丁寧に頭を下げた。そして首のリボンを外し、白いブラウスのボタンを外し始めた。僕は周囲が気にかかったけれど、とりあえず屋上の中央のこの位置にいる限り、校庭から見られることはない。もしも僕たちが乗り越えてきたあの窓のところに、このタイミングで誰かが来たらアウトだけど、そこは『賭け』だ。とはいえ、確率が悪い賭けではないはず。
 ブラウスを脱いだ菜々子は、純白のブラをまる見せのまま、またブラウスを丁寧にたたんで、僕の手の上のベストに重ねた。菜々子の胸の谷間はあまり大きくはなかったけれど、それでもしっかり確認できるふくらみが存在していて、もう子供じゃないし、やっぱり『女』なんだね、と痛感させられた。
「ね、やっぱ、少し寒いね」
 と菜々子は顔をしかめて苦笑した。
「そりゃそうだ」
「でも、これだけじゃ、まだ『はだか』とは言えないよね」
「いや、言ってもいいと思うけど。まだ高校生なんだし」
 菜々子は考えてから、大きく首を振った。
「いや、ダメダメ。これだけでは、なにかが違う気がする。でも、ごめんなさい、さすがにこの先は光橋センパイでも恥ずかしいので、申し訳ないんですが、それをここに置いて、隠れてくれません? いや、隠れなくて、見ていてもいいけど、ちょっと遠くからお願いします」
 遠くからなら見てていいの? とバカな男子っぽい発言が思わず口から出そうになって、僕はあわてて呑(の)み込んだ。
「ん、じゃあ、ここに置くから。まあ、風もないし、飛ばされないだろ。遠くって、どのくらい? あの入り口のところでいい?」
「十分です。すみません。わがままばかり言って」
「おいおい、そういう気づかい、なしにするんだろ? ここには、そのために来たんだろ?」
「はい!」
 そのあまりにもピュアな返答に、僕は苦笑しながらきびすを返し、開かずのドアの前にもどった。さきほど僕たちが二人で乗り越えた窓をぴしりと閉めて、腕を組んで振り返り、菜々子にむかってうなずいた。
 菜々子は「ありがとう」と口元を動かし、姿勢を正して、深呼吸を一回した。そしてついに紺のスカートを脱ぎ始めた。白いパンツの丸みのある下半身を日の光にさらしたまま、スカートも丁寧にたたんで、ベストやブラウスに重ねた。その屈(かが)んだ姿勢のまま、ブラを外して置き、靴を脱いで、パンツと靴下も脱いで置き、意を決したかのように、まっすぐな姿勢になった。
 何も身につけていない無防備な菜々子が両手を広げると、その日差しを受けた白い身体が、ゆっくりと宙に浮き始めた。一瞬、僕は目が錯覚を起こしたのかと感じた。しかし菜々子本人は、まったく驚いていない。予想していたわけではなかったろうが、彼女にとってそれは内面から発した自然な結果だったのだ。
 緊張しつつも、身体の上昇を受け入れる。そんな菜々子を、僕は美しいと感じた。女子のはだかが芸術なのかどうかは僕にはよくわからないけれど、とにかくこの瞬間、菜々子は屋上というステージで女神のように輝いており、その美しさを僕は祝福したい気持ちでいっぱいになった。祝福だったら、やはり拍手かな、と思って両手をあわせかけたけど、そんなことはふさわしくないとすぐに気がついた。高校生らしく「いいぞー」「がんばれー」と声援を送ることも考えたけれど、それもこの場には全くそぐわない。

 では、どうしたのか、というと、僕は『心が菜々子と一緒であろう』とした。僕は、彼女のようにはだかにはならないし(とりあえず今日のところは監視役だし)、はだかになったとしても、身体が宙に浮くことはないだろう。いや、絶対にない。これはおそらく菜々子だけが持つ、なにか特殊な能力なのだ。しかし信頼しあう相手として、心だけは彼女と共に寄り添っていたい。浮き上がる菜々子と共に、僕の心もそこに飛んでいけるように。
 菜々子は恐れも知らず、ぐんぐんと高度を上げた。それがはだかの女子高生であるとは、もうだれも気が付かないくらいに。
 菜々子は内なる興奮を僕に送り続けてくれた。空高く舞い上がる驚きを。輝く存在であること、その感覚を。にもかかわらず、彼女から届いたメッセージの具体的な内容はこうだった。

「私は自由が認識できない」



 高空にあって、まだ菜々子はもがいていた。彼女をしばるなにかからぬけることができない。
 そういう菜々子の存在は、あまりにもすごすぎた。他人には理解されない菜々子の絶対的な不自由。彼女は空に浮かびながら、それを僕に伝えてきたが、逆に言えば、それを吐露できる僕という存在がいたからこそ、彼女は浮くことができたのかもしれない。

 空から届く想いも、その信頼も、僕には最高に嬉しかった。だから僕も感謝の気持ちを込めて想いを返した。どのような現実の中に生きていようと、菜々子と、僕は、つながっている。
 それは現実を越えた、僕たちの真実だった。
 同様なことが、ほかの人にも起こりえることなのかどうか、それは僕にはわからない。
 ただ、菜々子は、その日、空を体験し、僕はそこにいたのだ。


◆ ◆  ◆ ◆



 ちなみに、そのあと、菜々子は風邪をひいた。空を飛べる女子高生が、はだかで秋空を飛んだら風邪をひいた、ってなんだか笑えるけど、これはこれで正直な現実なのだ。しばらく熱が続いて学校を休んだが、その一週間のうちに、ポカポカな秋の陽気は過ぎさり、早くも冬の気配を漂わせる北風が木々を赤く色づかせた。
 そんな夜に、菜々子から僕の携帯にメールがとどいた。

〈やっと熱下がってきた。しんどかったー〉

〈いきなりむちゃするからだよ。はだかで飛ぶのは、計画的に〉

〈うん。でも、寒くなってきたね。次にはだかになるのは、きっと春だね〉

 僕は、まだこりないのかよ、と苦笑した。

〈春になったら、悪いけど、僕は卒業だよ〉

 事実。それはたしかに事実にちがいない。しかし送信してから、急に大波のような後悔の気持ちが襲ってきた。ちょっと意地悪すぎたかもしれない。
 そして菜々子から、逆襲的シンプルメール。

〈勉強、がんばってね〉

 はあ? ここで『勉強』か?
 違うだろ。僕たち二人にとって、卒業で問題になるのは『勉強』ではなく、もっと大切なことがあるはず。
 僕がそんなふうに考えることは、おそらく菜々子も理解しているし、どうせこのタイミングなら、病み上がりのあまえんぼうさんな気持ちでズバリ『センパイ、好き』と送ってくれると、僕だって心揺さぶられて、人生最高のハッピーな瞬間になったにちがいなかったけれど、ま、恥ずかしいと感じたり、遠慮したり、考えすぎたり、現実はテレビドラマのようにわかりやすくはできていないから、僕としても彼女の全面的に日常的な文面を肯定的にとらえて、さらっと返してしまう。

〈ありがとう。風邪よくなったら、お茶でもしよう。暖かい店で、菜々子の好きな甘いもの頼んで〉

 本当は、この、くそ平凡ぽい文面に、あのとき目に焼き付いた裸の少女を今すぐ抱きしめたいという切なる愛の衝動を、僕なりにぎゅうぎゅうに圧縮して送信したわけだが、さて、高校生活も残り半年を切ってしまった僕の切迫した想いは、菜々子に伝わったものかどうか。

〈センパイ、私、厚着していっていいですか〉

 伝わってねーし。