美野里の白い部屋

美野里の白い部屋


  1

 高校二年の春休みに……というか二年から三年にあがる途中の春休みに、僕は普通列車を乗り継いで、新潟県の親戚の家へ一人旅をした。
 そこは新潟県といっても、海に近い方ではなく、山側の内陸の方。関東からむかうと、谷川岳あたりの険しい山や、スキー場の多い湯沢をすぎて、名もない小山がたくさん連なるのどかな風景になっていく。もちろんどんな小さな山にも地元の人の通り名みたいなものはあるだろうけれど地図にはいちいち記載されてはいない。
 そんな小山のひとつに、宮本さんの家はあった。

 その家までは、駅から歩いて二時間ほど。いちおう歩いて行けないこともない。一度、バスの時刻まで時間がありすぎて、思い切って歩いてみたことがあった。いちおう舗装された自動車道路ながら、ターンを繰りかえす傾斜道が延々と続く。
 道を上りきったところに、ぽつんと二階建ての家がある。それが宮本さんの家だった。白っぽいモダンな家で、意外なほど風景になじんでかっこいい。
 家のまわりは、田んぼが多かった。地形的には小山の上の方だが、よく見ると田の脇から天然水がわき出ている。このあたりで作られる米が高級ブランドである理由のひとつが、この清らかな天然水なのだろう。
 たしか小二の夏休みだったと思うが、その冷たい水に手を入れて、身体の芯まで透明になったような気がしたことがあった。それが僕のここでのもっとも古くて鮮明な記憶だ。

 宮本さんのところでは、四人の家族が暮らしていた。ギター職人のご主人・英俊おじさんと、気さくな明代おばさん(僕の母の妹)、それに二人の娘たち。
 長女の美野里は僕と同じ年齢であり、この二人の姉妹こそ、僕にとって二人しかいない”いとこ”なのである。
 小学生の夏休みに家族旅行で寄せてもらったとき、僕は何の気なしにふと質問を口にした。こんなところに暮らしていると学校はどうしているのだろう、と。
 美野里はあっさりと僕の疑問に答えてくれた。
「朝と帰りはバスがあるよ」
「知っているけど、それだけ? バスに乗れなかったら?」
「乗るようにするから」
「あ、そうか……」
「でも、私は、行かないからいいんだけど」
「え?」
「学校」
「どうして?」
「病気だから」

 その美野里の一言は、油性マジックペンでついた服のシミのように、僕の心に強くいつまでも残った。しかし僕は彼女の病名を知らなかった。知らされることもなかった。
 美野里が学校に行っていなかったのは本当のことだった。その年の一学期を、彼女はまるまる長期休暇していた。やや色白で静かな性格の美野里だったが、それほど病弱と感じられる見た目ではなかった。食事も普通だし、夏休みらしく野山を走ったり、日に焼けたりもする。僕は子供なりに、彼女が深刻な病気を持っているとは考えにくかった。
 たまたま僕の小学校には腎臓が弱く、体育は必ず休む友達がいたが、腎臓病という名はみんなが知っていた。かくすことではなかった。身体の問題というものは、みんなでわかり合って、助け合えばいいこと。しかも、僕と美野里は、ただの友達ではない。血のつながった身内なのだ。
 それでも大人たちは、美野里がある種の治りにくい病気であることを知っており、小学生の僕がそのことを質問すると、誰もが露骨に話をはぐらかした。それは質問してはいけないことなのだよ、とわからせようとしてくる大人の意図が伝わってきた。
 だから僕は、口をつぐんだ。
 美野里が何の病気なのか、ずっと知らないまま、僕たちはいっしょに夏休みを過ごした。幼い頃にも行ったが、特に小四年から小六年まで、僕は毎夏、宮本さんの家に滞在した。さすがに会社勤めのうちの父は長く滞在できなかったが、母と僕は一階の和室を僕たち専用の『高原の別荘』のように使わせてもらった。もしも母も帰らなければならせないときは、僕専用の部屋となり、夜にはいとこたちと壮絶な枕投げ大会をやったりもした。
 田舎で過ごす夏休み。虫を捕ったり、草木染めをしたり、蛇の進行を眺めたり、宿題をしたり。
 中学になると、もう子供のように親戚の家にお世話になることはなくなったが、高校に入って軽音学部に所属してからは、またおじさんが作るギターが目的で、宮本家を訪ねるようになっていた。
 英俊おじさんは、ギター職人なのだ。

 今から一年前、高校一年の冬にも、僕はクラスの友達と二人で宮本家にお世話になった。いっしょに行った友達は軽音学部の仲間だった。
 それは初めての”冬の訪問”だった。がらがらとうるさいチェーンをつけた路線バスでたどり着いた雪の中の宮本家は、まさに童話にでてくるお菓子の家のように美しく見えた。木工職人の家らしく、ベランダにおしゃれな鳥箱がとりつけられていた。
 その夜は全員で楽しく鳥鍋を囲んだ。鳥は近くの養鶏農家からその日にもらってきた新鮮なものだと教えられて、確かに臭みが全くなくて美味しいといえば美味しかったけれど、逆に新鮮すぎて、まだ歩いているニワトリを思いだしてしまい、僕はすこし複雑な気分になったものだ。いっしょに行った友人は、子どもの頃からギター教室に通っていきた根っからのギター好きで、僕よりもはるかに音楽にくわしく、初対面ながら、おじさんとテクニカルな話がはずんでいた。
 そんな和やかな夕食の席でのことだった。美野里が突然、泣き始めたのだ。
 僕は何が起こったかわからず、そのままギターの話題を続けようとした。しかし美野里が強くカタンと箸を置き、怒った表情で「私はこの家の子じゃない」と主張したとき、奇妙な沈黙がテーブルを支配した。
 なんでそんな深刻なことを美野里が急に言い始めたのか、僕には全く理解できなかった。僕たちがギターの話題で盛り上がっているあいだに、ひそかに家族的もめ事が進行していたのか、とも考えたが、少なくとも表面的にはそのようなことは何もなかった。テレビではなにかのドラマをやっていたが、音量は大きくはなく、ただ団らんのBGMとなっていただけだ。気まずい雰囲気も特になかった。
 なのに、美野里は急に激しく取り乱し、明代おばさんが困ったように「あらあら、そんなことないわよ」と横からあわてて諭していた。とってつけたように「そんなことないわよ」と言ってみても、奇妙なほどに説得力がない。もちろん「説得力」なんて、最初から必要のないことだった。だって、そもそも美野里と明代おばさんの顔は、誰が見たってそっくりなのだ。色白で、目がくりっとしていて、丸顔で。美野里が明代おばさんの子供でないなら、いったい誰の子だというのだろう? もちろん、そういうことを、美野里はすべてわかっていた。高校一年の賢い女子が、その程度のことをわからないはずがない。わかっていても、その瞬間、彼女の心の中に「私はこの家の子じゃない」という現実が、ごろんと丸太(まるた)のように存在した。美野里の心の中の丸太。どけることはできないし、説明することもできない。だから、取り乱し、怒り、泣くしかない。
 そういうことが、美野里にはときどき起こる。

  2


 宮本さんのおじさんは、ベテランのギター職人だ。自分の名前で(つまり個人製作家として)楽器を売ることまではしていなかったが、工場の職人としては指導的立場らしい。
 僕が宮本さんの家に行くのを楽しみにしているのは、工場の試作品や不良品のギターを譲ってもらい、持って帰るといういかにも軽音楽部員らしい理由があったわけだ。僕はギターを始めてから、すでに三台もひきとっていた。僕の友人たちは、贅沢にも宮本さんの関わったハンドメイドギターで練習している。残念ながらエレキギターは一台もなかったが、アコースティックギターを弾く友人や後輩からは、僕はいたく尊敬されているのだ。
 そして四台目を引き取りに、僕は宮本さんちに来た。
 高校二年の春休み。

 春に来たのは初めてだったが、おじさんは工場の仕事がたまっており、帰りは夜になるとのこと。雪解け後から梅雨までの数ヶ月は季候がいいし、楽器もよく売れるので、多忙な時期らしい。
 僕は先に、持って帰る予定のアコースティックギターを見せてもらった。玄関においてあった黒い中古のハードケースを開いて、手に取ってみる。ケースはあり合わせのものだったが、ギターはどこが不良品なのかまったくわからない、ぴかぴかのものだった。
 僕はそばの階段に腰掛けて、さっそく音を出してみた。緩んでいた弦を巻き上げると、美野里より五つ年下の沙也香(さやか)が音叉を持ってきてくれた。ありがたく受けとり、五弦から調弦していく。
 沙也香はそのまま廊下に腰を下ろして、聞き役になってくれた。こういうとき、子供と一緒に歌えるような曲を知っていたらよかったのだけど、そういうレパートリーは一つもなかったので、調弦をすませるとレッド・ツェッペリンの断片みたいなものを弾いた。
「どう、それ?」
 と、沙也香はまるでギターショップの奥様のような表情で、僕に出来ばえについて質問した。
「よく鳴るよ。これだけ鳴ったら普通、20万円はするね」
「そーなのー?」
「ていうか、おじさんが、これは普通に買ったら20万円するって言っていた」
「なーんだ」
「わかるわけないだろ、僕だって初心者なんだから」
「でも、わりとよく弾けていると思うよ」
「ははは」
 僕は「おまえにわかるのか」と内心思って苦笑した。
「シゲちゃん、ギタリストになるの?」
「なれたらいいなとは思うけど、僕にそんなに才能あるかな?」
「うん……才能なくても、努力すればなんとかなるかもだよ」
 メチャクチャ生意気。その「なんとかなるかもだよ」みたいな言いかたが、最近の小学生にはやっているのか?
「あのねえ、小学生にそういうこと言われたくないっす」
「あのねえ、私はもう小学生じゃないっす、中学生っす」
「え、まじ?」
 僕は弾く手を止めて、目を丸くした。
「私、この春から中学だよ」
「でも、まだ入学はしていないんだろ?」
「そりゃそうだけど、でも、小学生じゃない。卒業式やったし」
「へー、そうだったんだ」
「あのねー、ちょっと、こんな重大なこと、今さら知ったみたいな顔しないでくれる」
「事実、今さら知ったことなんですが」
「そんなわけないでしょ。だってシゲちゃんは、私の中学入学を祝うために来てくれたんでしょ?」
「は? そんなこと聞いてないし」と僕は大げさに首を振った。「悪いけどお祝いなんて用意してないから」
「もー、どーいうこと、それって。ふざけすぎー、ぶー」
「どうもこうもないよ。じゃ、とりあえず、おめでとうの曲でも弾かせていただくか。じゃーん」
「そんなん、いやだ。私はもっと美味しいものとかがいい」
「音楽で我慢しとけよ。食べると太る」
「太んないもん。私はこう見えてもクラスで一番細いほうなんだから」
「みえみえの嘘いうな」
「だとしてもー」
 沙也香はどちらかというとぽっちゃりした体重多めの女子だった。
「まあ、沙也香も中学生なら、そろそろ、大人の音楽だな」
「あのねー、ぜんぜん話がつながってないんですけど」
「とりあえず、これからはツェッペリンだ」
「自分の趣味を押しつけないで」
「趣味じゃないぞ。宇宙の法則だ」
「宇宙のことなんか言わないで」
「宇宙について語るのは僕の得意技なんだぞ」
「だから」と彼女は急に真剣に叫んだ。「宇宙のことなんか、言わないでって言ってるの!」
 沙也香があまりにきっぱりと否定するので、僕はとまどって言葉を失った。
『宇宙』のどこが悪いのだろう? なにも悪くないと思うが……。
 僕には意味がわからず、とりあえず再びギターを弾き始めた。CとかGとか、その場を取りつくろうような明るいコードを選んで。

 夕飯は山菜の天ぷらだった。ここの春の山菜の美味しさについては前から聞いていたけれど、今まで春に来たことはなかったし、そもそも山菜などというものをありがたがるのはお年寄りたちであって、高校生の自分はそんなことはないだろうと勝手に予想していた。
 ところが、とんでもなかった。食べてみて、ビックリした。
「すっげー、うまいっす。ここにきたのは山菜天ぷらを食べるためと言いたいほど」
「今の季節は農作業が始まっているから、みんな忙しいの」と明代おばさんは揚げたての天ぷらをテーブルの大皿に移しながら言った。「だからあまり奥まで行かなくても採れるのよ。ね、美野里」
「うん」
 と美野里は可愛く目を光らせて頷いた。
「なんなら僕も一緒にいけばよかった?」
 僕が新しいギターをいじっている間に、おばさんと美野里の二人は山菜取りに出かけていたのだ。
「そうできたら嬉しいんだけどね」と明代おばさんは苦笑した。「よその土地の人が山菜を採るのは、みつかるといい顔されないから」
「おばさんたちと一緒でも?」
「まあ、だめってことはないけど」と美野里が説明を引き継いだ。「いい顔はされない感じ。よその人が無断で採っていくのを、みんな、かなり怒っているから。最近、そういうことが続いているし」
「なるほどね」
「案外……」と英俊おじさんがぼそぼそと口を挟んだ。「うちの工場に出入りしているディーラーたちが怪しいかもしれないんだ」
「近くなんですか?」
「工場はここから二キロほど。車で来て、黙ってとっていく、というのはあるかもしれない」
「でもたしかに、これだけ美味しいと、みんな採りたくなりますよね」
「いちおう注意はしてあるんだけど」
「こんなに自然がたっぷりでも、いろいろややこしいんですね」
「そうだなんよ」と英俊おじさんがしみじみと頷いた。「人がね、多すぎるんだ」
 僕は心の中で、少しだけ美野里の病気のことを思った。こんなに美味しい山菜の採れる自然の中で、のびやかにすくすくと育っているはずなのに、なぜ心の病気になるのだろう……

 夕食の後、英俊おじさんが家にあるいろいろなギターを弾いてくれた。居間に10台ほどケースをずらりと並べて。調弦しながら説明し、そのギターに合った曲を演奏してくれる。
「まあ職人の手だから、華麗な演奏は無理だよ」と言い訳しながらも、発せられる音は、さすがに美しい響きだった。
 50年以上前のビンテージギターや、プロが使うような高価なクラシックギターも弾いてくれた。
 美野里と沙也香は、楽器にはあまり興味なさそうだったが、それでも今夜は僕と一緒に父親の趣味につきあう覚悟をしているようだった。
 いつだったか、僕は美野里に「ギターやらないの?」と聞いてみたことがある。しかし「指が痛くてイヤ」と即答していた。確かに針金のような弦の張ってあるギターは男子でも指が痛くなる。女子ならなおさらだろう。
 この家にも男の子がいたらよかったのに、と僕は心の中で思った。こういう環境なら、父親の趣味を引き継いで、立派なギタリストになれたかもしれない。もちろん、僕がいとことして、その役を担ってあげられたら最高だけど、正直、音楽的才能が飛び抜けてあるわけでもなかったし、絶対音感もなかったし、可能性は薄いと思ってしまう。いちおう音楽は好きだし、将来、音楽に関わる仕事に就きたいとは考えているけれど。
 僕はふと、ギターを聴いている美野里の横顔を見た。少しふくよかで、しかも調和のとれた端正な横顔。正直言って、とても美人の女子高校生だった。もしも、いとこでなければ、異性としてつきあいたいと考えるところだろう。たしかに女性なのだ……そして気が付く。もしかしたら、女性であることこそが、美野里の心の問題の出発点なのかもしれない。もちろん、それが病気の真の原因とまでは言い切れないだろうけれど。もちろん、僕なんかが推察できるほど、簡単なことではないのだろうけど。
 父親の演奏に耳を傾けているとき、美野里はべつに嫌そうではなかった。言葉は少ないが、ときどき笑みを見せて、嬉しそうな表情もする。しかし、もしもそれらすべてが、彼女の自然な努力による『演技』だとしたら?
 わかっている……いつも僕は、考えすぎる方だ。特に女子のことになると、いつも考えすぎて自滅する。
 しかし、わかっていても、頭の中に浮かんでしまった考えを、無視して忘れることはできない。
 開け放った窓からは、レースのカーテンを揺(ゆ)らす心地よい春の夜風が流れ込み、英俊おじさんの弾くカントリー風のギター演奏と絡まりあった。
 そんな宮本家の居間に、僕は客として混ぜてもらいながらも、この現実の裏に隠された、正解のないややこしい一面を、密かに感じないではいられなかった。悪意を持った冷たくぎすぎすしたものが、目に見えるかたちでそこにあったわけではない。そういう明確なものが、表面的には何もなかったからこそ、逆に、強くひっかかって。

   3


 先に風呂に入った僕が、居間の横の和室に敷かれた布団(ふとん)に座って、髪をタオルでばさばさふいていると、ジャージ姿の沙也香がやってきて「ねー、私の枕、知らない?」と聞いてきた。
「さあ。これがそうなのか?」
 僕は自分の布団の上の枕を持って差し出した。
「どれどれ」
 後ろには美野里の姿もあった。もうガキじゃないんだから、女子が男子の寝るところに来るのはどうよ、二人の部屋は二階だろ、と僕は真面目っぽく考えたけれど、そんな僕が甘かった。
 沙也香は僕の枕を受け取ると、すぐに思いっきり僕の顔に投げつけてきた。そして高らかに宣言した。
「やった! 一勝!」
「おまえなぁ、いきなりそういうことする?」
 理屈っぽく不満を述べようとした僕は、さらに甘かった。横から飛び込んできた美野里が、ころがっている枕を手にして僕に投げつけてきた。
「ははは、楽勝!」
 今度は僕も何も言わない。すぐに枕を拾って、近い方の顔に投げる。美野里だった。一瞬、手加減してしまう。すると美野里の手が出てきた。
「キャッチ!」
「おい、キャッチなんかすんな。……うぐっ」
 速攻、投げ返された。
 僕も頭にきた。可愛いいとこだからって、手加減していたらこっちがやられる。二人を一人で相手する以上、本気にならなくてはならないのは昔も今もかわらない。転がった枕に飛びつき、抱き込むようにキープする。すると上から沙也香が乗っかってきた。もちろん美野里も。
「バカ、おまえら、重い」
「なに言ってんのよ、失礼なやつ、重くないぞ」と沙也香。
「そーだそーだ」と美野里。
 いや、十分重い。美野里なんか胸だって大きい方なんだから、もうこういうことはやめろよ、と僕は言いたかったけれど、二人の重みでうまく声が出せない。うまく言えないまま、中途半端に胸のことなど言ったら、それこそ容赦のない本気リンチに切り替わりかねない。しかたなく黙っていると、それをいいことに、上の美野里は「そーだそーだ」とプレスを繰り返す。
「か、か、か弱い男子をいじめるのは、や、やめてください」
「ギブアップって言ったら許してあげる」
「そーだそーだ」
「ああ……僕、吐きそう……さっき食べた天ぷら……」
「う、嘘でしょ」
 二人がひるんだ隙に、僕は身体を反転させて抜け出し、逆に美野里を押し倒し、上にのしかかろうとした。
「うそだよーん。美味しい天ぷら、吐いてたまるか」
「きゃー、えっちー、やめてー、襲わないでー」
 美野里が今さらながらそんな女の子っぽい声を出すから、僕は怖じけづいてしまった。
「あのなー、どっちが襲ってきたんだっちゅーの」
「襲ってないっちゅーの。これは戦いだっちゅーの」と、横に逃げた沙也香がサッと枕を広い、姉を守らんとするかのように、せいいっぱい大きな身振りで僕の顔に打ち付けてきた。
「うぐっ」
 ジャストミート。僕はわざとスローモーションのように後ろに倒れた。負けてやるのも愛だ、と、慈悲深く世界平和を祈りながら。

 完全なる勝利を手にした沙也香は、ほほえましいほど満足そうな表情で「シゲちゃんもまだまだね。さ、風呂はいろ」と去っていった。適度に運動してから風呂とは、なんとも健康的なやつだ。
 風呂がふさがってしまったので、美野里はそのまま残り、僕と居間で会話を続けた。去年の冬に来たときは気まずいことが起きたし、今日もすぐにあれこれ話し合える状況ではなかったが、枕投げという運動は、子ども時代に戻って打ち解けるいい機会になった。考えてみれば、すべて妹・沙也香の計画通り、という可能性もなくはなかった。それを認めるのは、しゃくだったけれど。
 美野里は布団の上に足をくずして座り、僕は壁に背をもたれかけて座った。
「なあ、最近、ミノっちの高校、どんな感じ?」
「まあまあよ」
「僕んとこなんか、男子校だからな」
「頭いいの?」
「頭なんかよくないって。みんな公立落ちたやつら」
「公立落ちても行くところがあるって、都会よね」
「都会に近いのは本当だけど、都会ってわけじゃないよ。うちの高校のまわり、田んぼばっかだし」
 美野里はくすくす笑って「それ、うちと同じ」と言った。
「こう言っちゃなんだけど、本当に三方(さんぼう)を田んぼに囲まれているんだ。すごいんだから。残りの一つはなんだと思う? 川だよ。ホント、マジですごいんだ」
「学祭とかある?」
「まあね。そんときはよその女子も少し来るけど」
「ギター、弾く?」
「まあ、いちおう軽音楽部だからね。ミノっちのとこは?」
「とりあえず、学校にはギターがいっぱいあるんだ。お父さんのメーカーの」
「地場産業ってやつだね」
「でも、あまりうまく弾く人はいないな」
「もったいねー。ミノっち、がんばれば?」
「私? 私は無理」
「じゃ、なにやっているの?」
「部活?」
「ああ」
「なにもやっていないけど……」
 美野里は何かを言いかけて首を傾げた。
「じゃあ、部活以外で何かやってるのか?」
「うん……実は最近、ネットで詩とかアップしてるよ」
「ホームページってやつ?」
「まあ、そんな感じ」
「すごいじゃん。家で?」
「学校で。教えてくれる先生がいて、学校のパソコンで、何人かと」
「なんだかそれってほとんど部活じゃない? 文芸部とか?」
「まあ、そんな感じかな。ちゃんとした部活の登録はまだしてないけどね」
「見たいな、今度」
「ホームページ?」
「それもあるけど、ミノっちの詩」
「恥ずかしいからいいよ」
「なんで?」
「いろいろあり得ないこととか、かってに想像して書いているから」
「エッチなこととか?」
「まさか」
「だよね。ミノっち、まじめなタイプだもんな」
「そんなことないよ」と美野里は顔を伏せた。「普通だよ。普通の方がいいよ」
「そうかな。僕は普通なんて、つまらないって言うか、くだらないって言うか」
「普通じゃない方がいい?」
「まあ、僕は、自由優先で。そのうち『普通』ってやつのありがたみをしみじみ語る歳になるのかもしれないけど、今はまだね。そういうのは、つつしんで遠慮」
「私も、ときどき、自由ってことについては考えるんだ……」
「自由?」
「詩のテーマとして」
「なるほど」
「私の知らない本当の私が、この空のむこうにいるのではないか、とか」
「そして、ゲリでトイレに駆け込んでいたりするのではないか」
「ちがうのぉ」
 美野里は大きく首を振って笑った。
「でも、普通って、そういうことだろ?」
「う……うん、そだね。やっぱりシゲちゃん、頭いい。私とはちがうね」
「おいおい、なんでゲリピーの話をしたら頭いいって言われるかね」
「発想がユニーク」
「あまりほめられている気はしないけどな」
「私なんかがほめたって、意味ないでしょ。それとも、少しは嬉しい?」
「かっこいいって言ってくれたら嬉しいかもしれないけど、ま、それも非現実的だしな」
「そうね」
「おいおい、そこ、素直に納得しないでくれ」
「わかっているって。シゲちゃんがかっこよくなくても、私にとっては大切な身内だから」
「ふざけているのかマジなのかわかんないっす」
 と僕は首を振った。
「半分半分なのよ。詩みたいでしょ?」
「なにが?」
「意味が交錯しているの。現実と空想」
「紛(まぎ)らわしくて、バツ」
 と僕は腕を×にした。
「ひとつだけの答えなんて、面白くないし、実際にそういうことはあり得ないと思う」
「いやいや、例えば信号が、青と赤、同時に点灯したら危険だし」
「でも、人生って、そういうことがあるものなんじゃないかな」
「そうかぁ?」
「多面性って言うの?」
「すげー難しいこと言うね」
「シゲちゃんだって、男子だけど弱い一面があるかもしれないし」
「まあそれは……」
 美野里はうつむいて「私だけかな」とつぶやいた。「私だけ……シゲちゃんはさっき、枕投げでわざと負けたかのような顔をしていたけど、本当はそれが実力なんだと感じたのは、私だけ……」
「違う!」と僕は速攻、否定した。「あれは本当に本気じゃなかったの。わかるだろ? だって女の子の顔に本気で枕なんか投げつけられないし」
「わかっているけど、でも、言ってみただけ」
「それ、昔のお笑いの人のまねだろ。僕もよくお笑いの真似はするけど、ミノっちがするとは思わなかった」
「急に思い浮かんじゃったの。確かに珍しいかも。なんでだろう。シゲちゃんと一緒にいるせいかな」
「まるで一緒にいるとボケが移ったみたいな言い方、やめてくれます?」
 僕が勢い込んで言うと、美野里は「移ったと言えば、移ったかもな、って思うの」とさらにボケた。
「そういうふうに自然に肯定しないでくれます?」
「シゲちゃんて、面白いよね」
「そういうふうに悟ったようにまとめないでくれます?」
「もう私、これ以上どうボケたらいいかわかんないよ」
「そういうふうに僕だけボケの世界に取り残すのやめてくれます?」
「別に取り残したりなんかしてないよ」
「取り残してないと言いながら、思いっきり取り残されているんですけど?」
「もういいよ、わかったから、そのぐらいで」
 そのとき、美野里の表情が曇った。なにかを感じたか、なにかを受け取ったような、意外な表情でつぶやいた。
「ねえ、シゲちゃんは、どうして私たちと暮らさないの?」
「は?」
「どうして?」
「なんだよ、いきなり」
「あっちの方が、いい学校があるから?」
「い、いや……」
「お兄ちゃんがいないと、本当は、寂しいんだよ、私」
「え?」
 僕はこれもまだボケの続きなんだと思いたかった。アニメの萌えキャラの真似をしているだけ、とか。いわゆる妹萌。しかし本当は、わかっていた。これがボケではないこと。
「ごめんね。でも、私『弱い』から」
「わ、わかっているけどさ」
「強くなろうってがんばっているけど、でも、本当は……」
「美野里は『弱い』んだろ」
「うん」
「まあ、それは……それについては、僕もわかっているよ」
「わかっているなら、なんとかしてよ」
「え?」
「お兄ちゃんでしょ、バカ」
「……」

 僕には「お兄ちゃんじゃないんですけど」という、当たり前の突っ込みが、どうしてもできなかった。こういうことは、間違った枝分かれをしたら、すぐにきちんと修正した方がいいだろうと、常識的な考えにはとらわれたけれど、なにせ病気に関係することと察せられたから、どう対応したらいいのか自信がもてない。厳しく言った方がいいのか、ずるずると甘やかせた方がいいのか。もし今はずるずると甘やかせても、しばらくたって枝分かれしていた思考が正常に戻ってくれば、お兄ちゃんと言ったことなど、浜辺に作った砂の城のように、現実という波にさらっと消えてしまうものなのかもしれないし。

「あのさぁ、たぶん、僕は、美野里のお兄ちゃんじゃないと思うんだけど……」
 恐る恐る僕が言ったことに対して、美野里の答えははっきりしていた。
「わかってる」
「え? わかっているの?」
「みんな、そういうことにしたいと思っているのよ。知っているよ。シゲちゃんにとっても、その方が都合がいいんでしょう。だから、ごめんね」
「え?」
「わがまま言って」
「いや、そういう問題では……」
「自分のわがままはよくわかっているから、でも、私、本当のことが知りたいよ。シゲちゃんは、お兄ちゃんでしょ?」
「違うんだ。わるいけど。だって、学年もいっしょじゃん」
「どうして……」
 美野里の両目から本物の涙があふれてきて頬を伝った。
「どうして、そんな嘘つくの?」
「僕は別に嘘はついてないし」
「お兄ちゃんはわかってないのよ、私のこと。寂しいのに。だって、離れていても声が聞こえるんだよ。嘘を言ってもわかっちゃうんだよ」
「だから、それはそれで、僕もきちんとまじめに考えるし。ホントに。だって僕たち、他に親戚ないしさ、唯一の同年代の身内だもん。こんなこと改めて言うのは抵抗あるけど、僕はミノっちのこと、真面目に大切にしたいし」
「だったら、どうして……あのときはお兄ちゃんだって言ってくれたのに……」
 美野里はテーブルに突っ伏して泣きはじめた。

 僕は、バカみたいだ、と思った。こんなの、全部、下手な芝居を見ているみたいじゃないか。べつに僕はどちらでもいい。いとこも、兄弟も、身内に変わりない。いとこなら恋人として付き合っても法律的に許されているらしいけど、自分としてはそういうつもりはないし、やはり恋人ではなく、身内として親しくしたいと思う。ちゃんと子どもの頃から知っているあいだがらだ。当然のことながら、自分が美野里の兄だなんて言ったことなど一度もない。何を勘違いしているのか知らないが、そんなことを僕が本気で言うわけがない。
 それでも、これが美野里のかかえる”病”なら、それも含めて、逃げずに受けとめたい。僕にできることは、さほど大きなこととはいかないかもしれないけれど、美野里のためなら、かなりのことを引き受ける覚悟はある。それが僕にとって、とんなに負担になることであっても。
 しかし問題は、負担の大小ではないのだ。僕に何がしてあげられるか、それが『わからない』ことだ。
 たとえば、泣き伏す美野里をしっかり抱きしめてやりたい、とは思う。泣かなくていいよ、と頭をなでてなぐさめる。あせらずに、ゆっくりしてれば、きっといろんなことが解決するから、と。そうしてあげたいが、しかし、そういう優しさそのものが、この場合、症状を悪化させる毒である可能性もあるだろう。
 優しい言葉もかけられず、きっぱりと否定することもできない。どちらも正解にならない。
 要するに、僕がここにいること自体が悪いのかもしれない……ハッと気付く。みんなの親切に甘えてばかりで、こういう場所に暮らす寂しさも知らないまま、たまに来て、ギターや山菜など美味しいところだけを持ち去る調子がいいやつ。
 無責任すぎるじゃないか。僕の存在という『毒』。
 一年前の鳥鍋の夜もそうだった。僕の存在が原因の全てではないかもしれないけれど、おそらくきっかけにはなっている。そんな簡単なことに、今まで気が付かなかったなんて、申し訳なさすぎる。
 とりあえず、今は美野里を『介抱(かいほう)』して、部屋に引き上げさせよう。
「なあ、今日はもう寝ないか?」
 美野里は顔を伏せたまま、無言でいたが、もう泣きやんでいた。
「あのさあ、明日また考えようよ。今日はもう遅いし」
 美野里は急に顔を上げて僕を見た。
「バカ」
「え?」
「嘘つき」
「ち、ちがうって……」
「もういい。勝手にして」
 美野里は立ち上がり、早足で自室に戻ってしまった。ぐずられたらどうしようと考えていたから、ありがたい展開ではあったけれど、なんとも後味は悪い。

  4


 家中が寝静まってからも、僕は眠れずに部屋の窓を開けて夜の庭を眺めていた。ひんやりとした四月の空気が草木の匂いをまとってやわらかに流れ込んでくる。宮本家のみんなの寝室は全て二階だったから、一階に寝るのは自分だけだった。
 とても静かだ。まるでこの家の周辺だけが、世界の人々のあくせくとした営みから取り残されてしまったかのよう。
 僕は窓の外の星空を眺めて、どうしたらいいのだろう、と考え続けた。
 以前のことといい、今夜のことといい、僕の存在は美野里に悪い影響を与えてしまうらしい。お互いに嫌いというわけではないし、むしろ僕なんかは異性として心がときめくほどだったけど、彼女の病気にとっては、こういう親しさこそが、現実を狂わせる悪い刺激となるのかもしれない。
 僕はもうここに来てはいけない……ここにいてもいけない……どこかに行かなくては……そして、今、この家を出るのは可能だろうか、と考えてしまう。書き置きをして、あとからきちんと電話で説明すれば、たぶん英俊おじさんと明代おばさんなら、わかってくれる。
 僕は自分の鞄から手帳を出して一枚ちぎり、短い手紙を書いた。



   すみませんが、とりあえず、帰ります。 
   いろいろありがとうございました!
   また連絡しますのでヘンに思わないでください。
   夜の道、好きなんで。
   じゃ、また。

     PS ギター、大切にさせてもらいます。



 こんなの、十分にヘンだよ、と自分でも書きながら思った。しかし書き終えてみると、逆にこうやって思い切った行動をすることが、何よりもいいことのように思えてきた。いずれにしても、すべてがうまくいく画期的な選択肢なんて僕にはないのだ。さいわい四人は二階で寝ているので、僕が一階でごそごそ行動しても気が付かれる心配はない。
 僕は布団のまわりに散らかしていた私物を鞄に詰め、ギターケースの留め金を閉めてから、部屋着のジャージからジーンズに着替えた。出発の用意が済むと、玄関に行って靴をとってくることにした。普通に玄関から出ると、戸がガラガラと音を発するはずだ。台所の勝手口から、そっと出た方がいい。カギを開けたまま去るのも、玄関より勝手口の方がいいはずだ。
 悩んだり、迷ったりはしていたけれど、勝手口から外に出て、独りぼっちで真夜中の道路に立ってみると、意外なほどの開放感に包まれた。
 ひとけのない深夜の道。誰も見ていないし、見られる心配もない。自由とは、まさにこのこと。
 月のない夜で周囲はかなり暗かったが、道の見分けが全くつかないほどではなかった。星明かりのおかげか、あるいは数キロ離れたところにある高速道路の灯りが空を明るくしているからか。
 この道を下って街に近づけば、深夜営業のコンビニもあるはず。
 僕はギターケースをいったんアスファルトに置いて、感謝の気持ちで宮本家にむかって頭を下げた。
 そして、のんびりと歩き始めた。なにも急ぐ必要はなかった。夜が明けて列車が動き始めるまでは、まだ時間がたっぷりとある。むしろ時間をつぶすことの方が問題だった。道は快適な下りがメインで、自然と足取りが軽くなる。身体も温まり、息が弾む。
 オッケー。悪くない。全てがいい感じ。

 しかし駅の近くまで下りてきて、時間をつぶすために街灯がひとつだけ点っている公園のベンチに座り、歩いてほてった身体の熱が冷めていくと、かわりに悲しい気持ちがわき上がってきた。
 土砂降りのにわか雨のように。
 あるいは穴の開いたポケットのように。
 なぜなら、美野里をめぐる全てのことが、本当は憎しみではなく、相手を思う愛情から発している、ということに、今さらながらはっきりと気がついたからだ。確かに悪意はどこにもない。悪意は全くないのに、すべてに背を向けて去ろうとしている自分がいる。そのことが、とてつもなく悲しかった。それしか他に方法がないのだ、と自分に何度言い聞かせてもむだだった。空がうっすらと明るくなっていくにしたがって、だんだんと、それは消しがたい炎に変わっていった。変わんなくてもいいのに、と思う。変わったところで、何もできないのに。何もできないという事実は、全く変わりはしないのに。
 ひとつだけ、はっきりしていることは『何もできない』という現実だった。高校生の僕には、やれることも、理解できることも限られている。人生経験を積み、あるいは医学の勉強などをしていれば、もっと適切で具体的な対応をとれたかもしれない。しかし今すぐには絶対に無理。うかつなことをして悪化させないように距離を保つ、そんなことしかできないのが、今の自分の正直な現実なのだ。
 要は、逃げるだけ。逃げているだけ。
 確かに、逃げてしまえば、僕はそれでいいかもしれない。罪悪感は続くだろうが、離れてしまえば、そんなに濃いものとはならないだろう。もしこれが、恋人として付き合うとか、長い時間を共有するとか、そういう深い関係の後ならば、話が違ったのかもしれない。しかし僕の場合は、年に一回くらいのペースでやってきて、みんなで夕飯を食べて、その後いっしょに時間を過ごす、それだけ。今回だって、丸一日にも満たない滞在だ。これで一生気に病むほどの大罪になるというなら、恋人とどろどろになったりしたらどう受けとめればいいのか。つまり、こんなの、大したことじゃない。あとは大人にまかせるだけ。それしかない。僕はまだ高校生だし、美野里もまだ高校生だ……
 言い聞かせながら、ふと気がつくと、僕は涙を流していた。一瞬、眠って、夢を見たのだ。僕は美野里の兄、どうしてそんなことに気がつかなかったんだろう、と。短い夢だったが、夢の中ではそれが真実だった。現実は確かに違うが、しかし現実が『すべて』なのだろうか? 考えたり感じたりする心が、現実と完全にイコールになるなんて、きっと誰だってあり得ない。大切なのは、「美野里が僕の身内」であり、「美野里が身内であることを、僕は心から嬉しく思っている」ということだ。それはつまり父や母と同じようなものだ。それこそが心の真実だ。「バカ」と言われたら「おまえこそバカだ」と言い返してやればよかった。ヘンに気を使うなんて一番よくない。どうしたらいいのかなんて、僕にはさっぱりわからないけど、もし本当にこのまま、問題を放置して去ったら、僕が美野里のことを嫌いになって見捨てたのだと、とんでもない誤解をされかねない。その可能性は、あらためて考えてみると、とても高い気がした。むしろ、そう受けとめられてしまうしかないかもしれない。しかし、それは違う。そういう誤解だけは絶対にして欲しくなかった。嫌いなんじゃなくて、わからないだけなんだ。わからないということも、罪といえば罪なのかもしれないけれど、僕は美野里のことが嫌いで去るわけじゃない。僕がどんなに思慮のたりない未熟者だとしても、そこだけは、どうしても理解しておいて欲しかった。
 僕は朝一番の列車の走り去る音に背を向けて、宮本家のある山の方を見上げた。自動販売機でペットボトルの天然水を買い、半分ほど一気に飲み干す。そして公園のトイレで用をたし、もういちど先ほど下ってきた道を歩き始めた。
 軽快に降りてきた道を、今度は一歩一歩登っていく。さほど急斜面ではなくとも、上りとなると足への負担が全く違う。徹夜の疲れもきているのかもしれない。しかしそれも、全て『罪をつぐなう一歩』と考えれば、全身で納得できた。鞄もギターも重くて、すぐに汗がにじんでくるが、それもまた罪をつぐなうための責務なのだ。
 すでに空は明るさを増し、朝焼けの紅色が薄まりつつあった。今から登り初めて、宮本家に着いたら、気づかれずに勝手口から戻ることができるだろうか? おそらくもうみんな起きていて、僕のメモを見て驚いているだろう。もっと急いで戻った方がいいとは思ったけれど、やはり身体は疲れているし、短時間だけダッシュしたからといって、長い行程にとっては焼け石に水だった。実際に、傾斜の緩いところで少し走ってみたが、文化系の僕なんかが走ったって、早足で登るのと大きく変わらない。むしろ疲れが増すだけだった。
 どうなるにしても、今から僕の力でなにかを大きく変えることはできない。変えられることは、何もない。それだけは、はっきりしていた。

 汗だくでたどり着いた家。
 勝手口の鍵は開いたままだった。ノブを回すと、すんなりとドアが開いた。中をうかがうと、明代おばさんが目の前の台所で調理中だった。
「おはようございます」
「あら、おはよう」
 おばさんに笑顔はなかった。疲れている様子だった。
「すみません、やっぱ、戻ってきました」
「昨日、美野里と何かあったの?」
「はい……」
「迷惑かけちゃって、ごめんなさいね」
「いえ、そんなことないです」
 僕は気持ちが高ぶって、むしろ急に腹が立ってきた。
「明代おばさん、絶対、そんなことないです。そんなふうに思うのだけはやめてください。僕、迷惑だなんて、全く思っていないですから」
「でも、いなくなろうとしたのでしょ?」
「戻ってきました。それに、僕は、ミノっちとは、他人じゃないんです」
 おばさんは大きくため息をついてから、やっといつもの笑顔を見せた。
「じゃ、おはよう、って言ってきてくれる? もうじき、朝ご飯、できるから」
「もう朝ご飯の時間ですか?」
「おなか空いてない?」
 ヘンな話かもしれないが、僕は自分がものすごく空腹であることに急に気がついた。
「そうっすね。腹減っています、すごく」
「食べて、寝ましょう。寝てないんでしょ?」
 明代おばさんのいつもの優しさに、僕は涙が出そうになった。
「でも、彼女の部屋、行ってもいいんでしょうか?」
「大丈夫よ。さあ、行ってあげて。あの子も泣いていたから。寝てないかもしれない」
「どうしてだよ」と僕は悪態(あくたい)をついた。「言われるまでもなくバカすぎる、自分」
「ねえ、お願いだから、そんなに考えすぎないで。私もね、正直、あまり考えすぎないようにしているの。それが唯一の秘訣(ひけつ)。経験から学んだ知恵だから」
 経験……そんな言葉を、僕もいつかは口にできるときが来るのだろうか。

  5


 鞄とギターケースを、誰もいない居間に置いて、まずは鞄からタオルを出して汗をふいた。そして階段をかけ上がり、美野里の部屋を小さくノックした。返事がなかったので、そっと扉を開けた。
「ミノっち、おはよー」
 無理に明るく声をかけた僕が拍子抜けしたことに、彼女は学習机に伏せたまま熟睡していた。横のベッドの布団は乱れていたから、そこで眠ろうとはしたようだ。しかしベッドでは眠れなかったのだろう。
「ほら、風邪ひくからさ、ベッドに移ろうよ」
「あ……」
 美野里は驚いたように顔を上げた。
「ほら、腕のあと、顔にばっちりついているぞ」
「へ?」
「そんなとこにいないで、ベッドか、それとも朝ご飯か」
「朝ご飯……?」
「明代さん、美味しいもの作っているみたいだったよ。もうすぐできるって」
 美野里は大きなあくびをひとつして、鼻をすすった。
「シゲちゃん」
「ん?」
「どうしてここにいるの?」
 僕は苦笑して「いろいろ悩んだ結果だよ」と言った。
「悩んだの?」
「ああ。むちゃくちゃ悩んだ。でも、わからなかった。なーんにも。だいたい、わかるわけないんだよ、大人じゃないんだし」
「私、もう、シゲちゃんとは、会えないかもって思った」
「どうしてさ」
「わかんない、なんとなく」
「そんなこと、思う方がヘンだよ。そりゃ、ときどきどこか行っちゃうし、ていうか、どこか行ってばかりかもしれないけど、僕たち、いちおう他人じゃないし」
「お兄ちゃん?」
「いや、それは、違うけど」
「……言ってみただけ」
「は?」
 美野里は顔を伏せ、崩れるように横のベッドに移動して、身体を布団に潜り込ませた。そして僕の視線を避けるように、横の窓へ目をやった。レースのカーテンの閉まった大きな窓からは、朝の白い光が部屋にあふれていた。全てを白っぽく変えてしまう神秘的な朝の光が、美野里の部屋にたっぷりと降りそそいでいた。全てが真っ白で、こんなに真っ白なことって、他にないよな、と僕は思った。
 なんで白いのか、なんて、そんなこと、考えるだけ無駄なのだ。
 それは本当に、最初からなにも存在していないのではないかと思えるほどに白くて、僕はただ、言葉を失うしかない。
 美野里のベッドの脇にしゃがみ込み、彼女の匂いのするシーツにほおづえをつく。窓からの光に目をむけた彼女の横顔を、いつまでも見続ける。
 僕たちはそのまま、白い夢の中にいた。白い白い夢の中。
 あふれかえる光の粒子につつまれて、答えなんて求めずに、どこまでも永遠に、白いばかりで。