ピュア・ハート

ピュア・ハート

 キーンと冷えた12月の早朝、高校二年の小林啓吾(けいご)は、まだ夜が明けきらないうちから起きだした。父親も別件で早起きしていた。
 あくびをかみ殺しながら苦笑している母親・陽子に見送られ、父と息子はそれぞれに真冬の屋外へそわそわと出かけたのだった。

 父は磯で魚釣り。
 息子は駅前のアニメイベント。

 少なくとも中学二年まではサッカー少年だった啓吾が、いわゆる『アキバ系オタク』なのかと問われると、そこまでのことはないだろうと本人は思っていたが、大好きな声優の○○が参加する珍しいイベントがこの地方都市で開かれるとあっては、やはり出かけないわけにはいかないのだ。

 駅前で高校のクラスメートとおちあい、アニメゲームグッズ専門のA店が入っているビルの前で並んだ。
「もっとたくさん並んでいるかと思ったよ」
 と、啓吾は両手をダッフルコートのポケットに突っ込んだまま若干の失意をこめて口にした。あるいは徹夜組がいてもおかしくないと予想していたほどだったが、開店一時間前の段階でこごえながら並んでいたのは10人ほどにすぎなかった。
 啓吾のクラスメートの西田昇(のぼる)は、ピーコートを抱き抱えるように両腕を組み、長く伸びた髪をゆらして、首を横に振った。
「ま、もう冬だしな、さむー。こんな日に普通、並ばねえべさ」
「西やん、それ、あまり関係ないしょ」
「いや、関係あるだろが。ありありっしょ。もう少し温かかったら、きっと100人は並んでいたさ」
「そうかな?」
 素直に疑問を口にする啓吾に、昇は笑ってウケた。
「そんなにファンいないだろ、こんな田舎だし」
「いや、田舎だから、ってことはあると思うけど」
「ていうか、あれだよな、この寒い中、こんなとこまで来る声優も大変だよねぇ、営業とはいえ」
「新幹線?」
「まさか。事務所の車に決まってるっしょ」
「そうか、そのパターンか。いろいろ販促グッズといっしょに車に押し込められてくる、と」
「いや、啓吾クン、俺たちはもう少し夢を持とうぢゃないか。いちおうタレントなんだから、スモークガラスの高級車で送り迎え、とかさ」
「わるいけど、そんなことして元が取れるイベントとは思えないんですけど」
「ま、そうだけどさ」

 後ろに並んでいた大人の二人組(おそらく30代)が自販機で買ってきた缶コーヒーを開ける音が響いた。冷えた朝の空気にコーヒーの香りが漂ってくる。啓吾も真似をしたくなる。が、ここはじっと我慢なのだ。缶コーヒーの贅沢を甘く見てはいけない。あくまで日々の禁欲的生活こそ、貴重なイベントにおける購入力発動へとつながるのだ。

「西やん」
「なにさ?」
「今日、寒いけど、うちの親、海に釣りに行ったよ。鯛(たい)釣りだって。信じられる?」
 啓吾は、自分の父親のことを遠い親戚の人であるかのように語った。
 西田昇は片手で髪をかき上げ、あきれた顔をした。
「マジか。いや、それ、マゾか」
「ほんと。信じられないよな」
「よく行くのか?」
「たまにね。たいして釣れないのに、なにが楽しいんだか」
「何も釣れないってことはないんだろ?」
「釣り船に乗るときはさすがに何か釣って帰ってくるけど、そうでないとめったに獲物なし」
「オレ、そういう無駄な努力する人の気持ちって、マジで理解できない。このクソ寒いのに」
「じゃあ、僕たちは?」
 啓吾に聞かれた西村昇は「そうさね。ま、似たようなもんかもしれんけど」と苦笑した。

 店員が入り口のシャッターを開けに現れた。啓吾は列に並んだ男たちを眺めてみた。いつのまにか30人ほどに増えていた。

「僕たちってこういうの初めてだけど、サインもらうとき、何か話できると思う?」
 なにげなく思い浮かんだ疑問だった。しかし啓吾はその瞬間をイメージしてみると、急に神の槍で刺し貫かれたかのような緊張が走った。
 西村昇はぞんざいに肩をすくめた。
「ま、そりゃあ、挨拶(あいさつ)ぐらいはするだろうさ」
「いや、挨拶だけじゃなく、一対一の会話みたいな」
「会話? 日本経済についてか?」
「そんな時間はないよ」
「問題は『短時間でいかにインパクトある会話をするか』だよ、啓吾クン」
「うむ、しかしインパクトある会話をして、どうするわけ?」
「オレたちのこと憶えてもらえる」
「そりゃあ、少しはね」
「それをきっかけに友達になれる。そうだろ?」
「可能性は限りなくゼロに近いと思うけど」
「そこだよ、これぞ男のロマン」
「それ、まるでうちの父親の釣りみたい」
「たしかにね。釣りと似ているかも。わずかな可能性を求めて努力するわけさ。啓吾の父さんは鯛かもしれないが、オレたちは○○さんの心をゲットだぜ、ファイト!」
「目標が高いのは悪いことじゃないと思いますけど、とりあえず現実を見ないかい? 自分ら、高校生なんだし」
「じゃあ、ひとつ作戦なんだが、いっそ『田舎の高校生』に徹する、ってのはどうだろう?」
「はあ?」
「ほら、タレントで働く人たちは、都会でギスギスした人間関係とかありそうだしさ、ま、そこはオレたち田舎者ですから、誠実さでは負けません、みたいな? いいんじゃね? いけてるしょ、これ」
「いやぁ、わざとらしすぎると思うよ、さすがに」
「ま、オレのキャラは『田舎者』というのには無理があるさね」
 啓吾は笑おうとしたが、すでに緊張であごのあたりがぎくしゃくしてうまく笑えなかった。
「なんだか、こんな話したら、ますます緊張してきちゃったかも」
「オレも。いやー、早く会いたいさね」
「う……うん、でも僕は、早く会いたいのか、ちょっと待ってほしいのか、微妙な感じかな」
「べつに啓吾がステージに立つんじゃないんだから、ビビルなって」
「でも、○○さんはステージに立つんだよ。その気持ちを考えたら、僕も緊張しちゃうよ」
「おいおい、なに勝手に気持ちを共有しているんだ、っの」
「ファンだし」
「いや、そういうことじゃなく。いいか、啓吾クン、重要なのは『魚と気持ちを共有すること』ではなく、『魚を釣り上げること』だからな。まじ、頼むさ、そこんところ」
「ああ……」と啓吾は急に妙な発見をしたような気がした。「だから、うちの父さん、魚釣れないのかも」
「え?」
「『気持ちを共有しちゃうタイプ』だから」

◆ ◆  ◆ ◆


「ただいま」
 啓吾が玄関から入ると、いきなりカレーの匂いに気づいた。自分の部屋に戻る前に、台所に顔を出した。
「あれ? 今日、カレーなの?」
「うん。なんで?」
 母親・陽子は当然のことのように目を丸くした。
「だって、今日って、父さんが魚、釣ってくる日じゃん?」
「さっき電話あった。釣れなかったって。寒いから、温かいカレーが食べたい、って」
「勝手だなー」
「いいのよ。私もカレーが食べたいと思っていたところだし」
「それは同意してもいいけどさぁ、それにしても、もうちょっとなにかあってもいいんじゃないっすか」
「もちろん、今からシーフードカレーにしてもいいのよ」
「肉、入ってんでしょ?」
「お肉・アンド・シーフードカレー。だめ?」
「そんなん、聞いたことないさ」
 と、啓吾は友だちのクールな口調をまねて首を横に振った。
 陽子は「ダメかなぁ」とつぶやいてから、急に話題を変えた。
「それより、あんたの方は収穫あったの?」
「塾で高村光太郎読んできた。感動した」
「塾の前に、早起きして行ったじゃない。おみやげは?」
「アニメのDVDでよければ」
「それ、もう見たやつでしょ?」
「まあ、いちおう何度か見ましたが、何か?」
 陽子はあきれて苦笑した。
「あんた、なんで一度見たアニメをまた高いお金出して買ってくるかしら。文庫本を買うくらいならいいけど、桁(けた)が違うんでしょ? お金があまっているわけでもないのに」
「価値観の相違、ってやつですね。本編以外に特典も入っているし。オーディオコメンタリーって言って、製作者や声優が本編見ながらコメントしているトラックがあるわけ。こういうのは買わないと絶対に聞けない」
「聞いて、どうするの?」
「何人かで手分けして買うから、聞いたら交換する」
「交換して聞いて、で、何かいいことあるの?」
「裏話が聞けると、いろいろ勉強になる」
 陽子は微笑んで、肩をすくめた。
「まあ、あの父親にして、この息子あり、って感じよね」
「母親の影響だって、多少はあると思うんですけどぉ」
「私は自然のままに美味しいカレーを作るの。ほら、私が一番まともでしょ?」
「その自信が恐ろしいっす」
「今日はターメリックをきらしていたから、わざわざ自転車で買いに行ったのよ。それより、父さんは一時間くらいで戻るって言ってたいから、DVD、見るなら早く見ちゃいなさい。『アニメの話』になると、またケンカになるんだから」
「余計なお世話っす」
 啓吾は首を振って、さっさと自分の部屋に戻った。趣味とか進路とかは、なによりもまず自分自身の問題なのであって、親にとやかく言われる筋合いのことではない、と、強引とわかっている主張をメラメラと心の中に渦巻(うずま)かせて。

 父親は予定の時間を大きく過ぎてから戻ってきた。いちおうおみやげのアジの干物は多く買ってきていたので、さっそく三枚焼き、カレーと共に食卓に並んだ。
 ファンヒーターの効いた部屋。食卓に並んだ三人分の夕食。奇妙な取り合わせだったが、カレーも、アジの干物も、それぞれに美味しいことは確かだった。
「釣れなかったけど、今回はかなりおしかったんだぞ。竿がグイグイしなって、あれは間違いなく特大の黒鯛だった。てっきり根がかりかと思ったくらいだ」
 妄想(もうそう)で恍惚(こうこつ)となれる旦那を前にして、陽子は苦笑した。
「ま、お父さんが楽しんでいるんなら、べつにいいんですけどね」
 啓吾は心の中で、楽しんでいても楽しんでいなくても、べつにどちらでもいいんですけどね、と思ったが、口には出さず、黙ってカレーを食べ続けた。
「どちらかなんだよな。釣れないかもしれないけど大物狙(ねら)いで行くか、確実に釣れることをねらって小物で我慢するか。迷うところだけど、今日は風が弱かったからな。思い切って極太の仕掛でチャレンジしたわけだ」
「『思い切って』はいいけど、事故だけは気をつけてくださいよ」
「そうだな。もうこの季節の海は冷たいだろうから、ライフジャケットつけていても危ないだろう」
「あらあら、怖いこと言わないで」
「ごめんごめん。ヘンに心配させて『もう行かないでください』なんて言われても困るからな」
「また行くの?」
 と、啓吾がポツリと聞いた。
「そりゃあ、行くだろ。また、ああいうの、釣りたいし」
 父親が見上げた視線の先には、古い鯛の魚拓(ぎょたく)が飾ってあった。啓吾が幼いときからずっと飾ってあるものだ。
「もちろん、大物狙いじゃあなかなか釣れないことはわかっている。けどな、あえて、釣れないものを釣りに行く、そこが挑戦なんだ」
 啓吾はため息をつき、焦げたアジを骨ごとポリポリとかじった。 
「ま、啓吾もそのうちわかるさ。ところで、母さん、今日な、店をサボっていっしょに釣りに行った鮨屋(すしや)の源さんだけど、久しぶりに休みなんで、あとで碁を打ちにくるってさ」
「えー、だったら鮨持ってきてもらえばよかったじゃん、カレーでなく」
 と啓吾は口を尖らせてブーイングした。
「いやいや、だからカレーなんだ。わかるか? 鮨屋の親父でもたまにはカレーを食べたい。それも、レストランのではなく、ジャガイモとかニンジンがごろごろした家庭的カレーだ。しかし鮨屋でカレーを作って匂いを漂わせるわけにはいかない。だから、そういうものが食べたくなったら、よそのうちに行ってご馳走(ちそう)になるしかない。なあ、母さん、そうだよな?」
「まあ、たくさんあるからいいけど、そんなに自慢するほど美味しいかっていうと、それはちょっとどうなのよ、って思いますけど。ただの市販のルーだし」
「ま、いいよ。好きにやって」と啓吾は空になった皿を差しだした。「僕はカレーおかわりしていい?」
「はいはい。多めに作ってあるから大丈夫」
 皿を受け渡しする二人をながめながら、父親は話を続けた。
「それでな、源さんがな、ちょうど姪(めい)っ子が来てるって言うんだよ。今日、仕事で来たらしい。今夜はこっちに泊まっていくから、連れてくるって。その子も囲碁が好きらしい」
 陽子は電子ジャーを見ながら「あらあら、カレーはいいけど、ご飯のほうは足りるかしら」と首を傾げた。
「でな、その姪っ子って言うのがな、なんでも、アニメの声優らしいんだよ」
 啓吾は母親から受け取ったカレーの皿をあやうく落としそうになった。
「おい、バカ、こぼすなよ」
「う、うん」
「うちの息子もアニメが好きで、って話をしたら、『名前くらい知っているかもしれないから連れていってやるよ』ってことになって。名前、聞いたんだけど、忘れちゃったな。でも、いい話だろ?」
「うん……」
 啓吾が、母親をのぞき見ると、ニヤニヤと苦笑されてしまった。啓吾が日中にどこに行っていたかを、釣りに行っていた父親は全く知らなかったから。

 そして啓吾は、また緊張。
 本日二回目の大緊張。
 イベントに出かけていって緊張することはあったとしても、まさかこの家で緊張するなんて思いもしなかった。しかしウソではないらしい。
 鮨屋の源さんのことは、啓吾もわりとよく知っていた。職人風の真面目な人。啓吾が幼かった頃から、たまに囲碁を打ちにやってくる。
 海から離れた場所で鮨屋をやる理由について、あの人は職人らしく「水がいい場所が好きなのだ」と語っていた。魚は運べるが、いい水は自分から行かなくてはならない、と。
 ああいう職人風のしっかりした人の親戚なら、都会で人気声優になるのもわからなくはない。常人(じょうじん)とは違うこだわり、というか、人々の尊敬を集める何か、というか。
 もうすでに部屋を掃除する時間の余裕などなく、そのことに関して母親はいつも通りに「もっと早く言ってよ」とグチをこぼしたが、今度ばかりは啓吾も同じことを言いたかった。
 部屋の掃除も、心の整理もできないままに、早くも玄関のチャイムが鳴ってしまった。

「どうも、こんにちは」
 玄関の扉が開くと源さんの低く渋い声が響いた。
 父親が立ち上がって玄関に向かう。啓吾もさりげなく少し離れてついていった。
「どうぞ、上がってください。母さん、来たよ」
「わかってまーす」
 と奥からのどかな声が響いた。
「もう、また余計な用意しているらしい。すみません、鮨屋さんに茶ではりあおうったって無理なのに」
「ははは、おかまいなく。で、こっちが姪の○○ちゃん。初めてだったな?」
「こんにちは、○○です」
 頭を下げた女性は、昼とは服装が替わっていた。清楚なブラウス姿から、今はTシャツにスラックス。普段着なのだろう。しかし色やデザインは、やはり凡人のものとは全くちがっていた。あきらかに、量販店で売っているようなものではない。あるいは、本当は量販店で売っているものでも、彼女が身につけるとちがうように見えるのだろうか?
「ああ、ようこそ。やっぱ、かわいいねー。なあ、啓吾」
「そういう問題じゃないんですけど」
「こっちが息子の啓吾。アニメ好きでね、困っているんですよ」
 啓吾は、ついに彼女と視線が合ってしまった。
 今朝は早くから「会ったらなにを言おうか」と考えて緊張していたが、いざサイン会で自分の番になると、どうしたらいいかわからなくなった……


「お名前は?」
「啓吾です」
「どういう字?」
「いや、ひらがなで、いいです」
「じゃあ……けいご君へ……」
「こんなこと言っていいのかわからないけど、アニメって最近って、刺激的な作品が多いじゃないですか。美しい作品ってすごく貴重だと思うんです。特にこないだの10話のラストとか。自然なのに、じーんときて、最高だなと思いました」
「はい、ありがとう。そうね、あそこは私も演じながら泣いちゃった。なにげない日常のなかの『さよなら』だけど、一日の大切さが、ぎゅってつまっている感じ」
「ですよね! 大切なものって、やっぱ、泣けます。それが一番っす」
「うん、ありがとう」
「ほんと、がんばってください。これからも全力で応援していますので」


 そんな真面目な話をしてしまったら、握手会なのに握手をすることをすっかり忘れて、激しい後悔と自己嫌悪を抱えて帰ってきた今日のイベント。
 その相手と、まさか、同じ日の夜に、我が家の玄関で会ってしまうとは。
 あちらも、アニメ好きの家族がいるとは聞かされていたようだが、自分のイベントのサイン会に来ていた少年とここで会うとまでは、考えていなかったらしい。
「……え?」
 と一瞬目を開いて啓吾を見た。
 啓吾がその澄んだ眼差しに浮かんだ疑問に「その自分です」と肯定するようにうなずくと、彼女は口元に笑みを浮かべて、あらためて深く頭を下げた。

「さあさあ、むさくるしいところだけど、上がってください、寒かったでしょ。上着、預かります」
 二人はジャンパーとコートを脱いで、小林家の父親に渡した。そして屈んで靴を脱いだ。黒い革靴と、ベージュのパンプス。どちらもピカピカの靴だった。
「やっぱ『芸能人』って感じがしますね、会ってみると」
「いえ、私は声優。裏方(うらかた)ですから」 
 そのサラサラとして透明な、しかも独特の甘さを含んだ声は、間違いなく○○さん本人のもの。
「でも、競争とか激しいんでしょうね。やっぱり、かわくないと難しいのだろうし。いや、それにしても、会ってみると、本当にかわいいね」
「バカ! そういう問題じゃないんだよ!」
 と、啓吾は、怒鳴っていた。

 怒鳴りたくて怒鳴ったわけではない。どうしてそんなことをしたのか、よくわからなかった。しかし、そういう問題ではないのだ。ただ、気がついたら、大声を出して、手を握りしめて、振るえていた。確かなのは「かわいいね」なんて、それは本質と全く異なるということだった。かわいくないわけではない。しかし、もっとはるかに素晴らしいことは、別にあるのだ。その聖なる良さが、安ペンキでベタベタと塗りたくられたような気がして、どうしても黙っていられなかった。
 バカっぽい父親のがさつな態度も、自分の見境のない衝動も、どちらも死ぬほど嫌になり、啓吾は二階の自分の部屋にかけ上がり、バタンと戸を閉めた。そして学習机の回転椅子にどっかりと腰掛けると、足で蹴って身体を回した。何回も、いつまでも、無意味に回った。

 源さんの渋い声がときどき下から響いてきた。三時間ほど囲碁を楽しみ、二人は帰っていった。その会話に、啓吾も入っていこうと思えば、もちろん入っていけた。二人の客人(きゃくじん)は、今はこの家にいるのだし、自分はこの家の息子で、その会話の輪に入る権利は当然ある。
 ただあの瞬間の、あの軽率で、身勝手で、突発的な行動が、すべてを台無(だいな)しにした。
 もしあの輪に入り、お茶を飲みながら普通に会話をすれば、いろんな話が聞けただろう。アフレコ現場の話も、声優仲間の話も。もしかしたら姪っ子の将来を気にした源さんが、異性関係なども問いただしたかもしれない。
 もちろんここですべて正直に語ることではないだろうが、本人を交えて私的な恋愛についての会話をできるとしたら、しかも「ほかの人には絶対に言わないで下さいね」などとあの声で念を押されたりしたら、これ以上の幸福があり得るだろうか? 
 啓吾は明かりを点けた学習机に頬杖(ほおづえ)をついて、じっと一人で考え続けた。遠くから「さようなら」と○○さんの耳慣れた声で挨拶が聞こえ、玄関の扉が閉まるまで。

◆ ◆  ◆ ◆



 啓吾は最後に風呂に入った。朝が早かった父親は一番に寝ていて『今日のこと』について議論することはなかった。
 風呂から上がり、パジャマを着た啓吾が、居間のソファーで横になって天井を見つめていると、母親が来て、優しく言った。
「ありがとう、って言っていたわよ」
「なんのこと」
 と、啓吾は不機嫌を隠さず、目を閉じた。
「わからないけど、あの人、『ありがとう、と伝えてください』って」
 啓吾は「ふう」とため息をついた。
「いい人だったわ」
「……」
「賢くて、楽しくて、優しくて。人気があるのもよくわかった」
 おいおい、賢くて、楽しくて、優しい? そんなの全然ちがうよ、わかってないくせに、と啓吾は思ったが、口には出さなかった。
「ねえ、啓ちゃん、ひとつ、我が家の秘密を教えちゃおうかな。でも、これ、絶対にないしょよ。お父さんには」
 啓吾は「ん」と唸った。
「あの魚拓(ぎょたく)、本当は、父さんが釣ったんじゃないの。もらい物よ。縁起がいいから、って、私たちの結婚祝い。でも、父さんは、あれを超えるのを釣るって頑張っているの。わかる?」
「『夢』ってことだろ」
「まあ、そう言ってしまえば、そうなんだけど……」
 なぜ母親がこのタイミングで、そんなみえみえのことを伝えたのか、その意図は嫌らしいくらい明確だった。息子の啓吾も、大きな魚を釣りなさい、それはお父さんと同じように『頑張る』ということだから。釣れるのか、釣れないのか、わからないけど、母さんは応援しているわよ、という意図。単純すぎるっつーの。
「あのさあ」
「なに?」
「僕は『釣る』っていう言葉そのものが、本当は大嫌いなんだ」
「どうして?」
「だって、いやらしいじゃん。だまして手に入れる、みたいで」
「でも、そうやって釣ったお魚を、みんな、食べているのよ」
「魚だったらいいけど、人間って、たぶんそれだけの問題じゃないから」
「どういう問題?」
「すくなくとも、僕が目指したいのは、そういうことじゃないつもり」
「釣らないのなら、網で捕る?」
「そういうことじゃなくてさぁ。捕るとか、捕られるとか。もっと、それ以外のことが、ちゃんとあるはずじゃん」
「理想をもつのはいいけど、大人の世界はいろいろ世知辛いものよ」
「だとしても」
「うん……ま、そうね。世知辛いことばかりじゃないって信じることは、母さんも賛成よ」
「賛成とか反対とか、そういう問題じゃないんだよ。『創る』ってことはさぁ」
 理想を信じてゆずらない息子の心に触れて、母親は内心うれしくなって、苦笑した。部屋を出ていく前に、ふと振り返って言った。
「あなたのそういう想いがあったから、あの人は啓ちゃんに『ありがとう』って言ったのかな?」
「あのさぁ、そんなこと、いちいち確認しなくても、わかりきってるっちゅうの」
 啓吾は最高に不愉快そうに言い放った。
「だって、あの人の本当の仕事を知っていれば、んなこと、当然なんだよ。下らない現実にとらわれずに、ピュアないいものを目指す。そういう『仕事』が、実際にあるんだよ。もう、なんにもわかってないんだから」
 母親は、小さくうなずき「おやすみ」と言って、ふすまを閉じた。

 天井を見上げたままの啓吾は、自分が信じる理想と、世俗的な現実との、大きすぎるギャップに、出口のない強い痛みを感じた。確かにアニメもいろいろだ。ピュアなんてこととは縁のない刺激優先の作品も多い。しかし決してそればかりではない。
 内面では、いつやわらぐかわからない、じんじんと持続する苦しみが続いていた。これを乗り越えた先には、きっと何かがある。すべてがバラ色ではないにしても、希望につながる何か。
 何かがあるということを疑う気持ちは、啓吾にはみじんもなかった。
 未知なる何かを渇望(かつぼう)しながら、今はただ、天井を見上げて目を閉じる。
 微かに感じられる○○さんの、ここちよい残り香りにひたって。