夢の終わり

   4

 市民病院に着くと、正面玄関はシャッターが下りて真っ暗だったが、そこから20メートルほど離れたところに『救急外来』という赤い文字が光り、その周辺だけは明るくなっていた。
「あそこでいいんだろうな?」
 しかし救急外来の前はアスファルトに白線で『救急車専用』と書かれ、一般車両駐車禁止の斜線が引いてあった。
 少し離れて、暗くがらんとした場所に車を止めた父親は、エンジンを切ると「着いたぞ」と言った。
 陽子はあやうく『暖かくして行きなさいよ』とおせっかいなことを言いかけたが、すぐに『病院だもの、必要ないか』と考え直し、ただ「行きましょう」とだけ言って車を降りた。
「へえ、夜はこんなふうになっているんだな」
 と、車を降りた父親は建物全体を眺めながらつぶやいた。
「キュウキュウガイライだって。ケイちゃんもおさわがせよね」
「心臓発作でもおこした人みたいだ」
「風邪で診てもらうなんて申し訳ないけど、私たちにも事情があるんですからね。いいわよね?」
 母親に話を振られた啓吾は、ダッフルコートにくるまり、マスクをしたまま返事はせず、戦場での捕虜のように重い足どりで二人に従った。
「そりゃいいに決まっているよ」と、何も応えない息子の代わりに父親が言った。「さっき電話で確認したことだし。『うちの息子が明日から受験で東京に行くので特別に効果のある薬をください』ってお願いすればいいだろ?」
「ねね、それもちょっとわがまますぎないかしら? 特別に効く薬なんてお願いしちゃっていいと思う?」
「ばか、冗談だよ」
 ガラスの自動扉を通り抜けると、窓の開いた小さな受付があった。通路には数個の長椅子が壁ぞいに置いてある。
 受付の奥に座っていたのは、事務服に淡いピンクのカーディガンを着た女性で、看護師ではなかった。長椅子には患者らしき人たちが、すでに三人座って待っていた。
「あの、さきほど電話した小林ですが……」
「ああ、お熱の方ですね。診察券と保険証はお持ちですか?」
 あらかじめ手に持っていたものを「これです」と陽子はすかさず差し出した。
「では、おかけになって、お待ちください。先ほど救急車が入ってしまって、少し時間がかかりそうなんです」
 陽子は『救急車』という言葉にドキッとする。が、啓吾もだいぶ高い熱を出している受験生なのだ。母親としては救急車に負けずに大切にしてあげたい。
「どのくらい待ちそうですか?」
「まだ診察中なので詳しいことはわからないんです。ちょっと様子を見てきますね」
 女性は病院らしい笑顔を見せ(朗らかな長沢恵里ちゃん風)、席を立ち、受付から廊下に出ると、診察室の扉を軽くノックして中を覗(のぞ)いた。
 そして診察室から戻ってくると、申し訳なさそうに「手術になるとのことなので、少し時間がかかりそう。しばらく待っていただけますか?」と三人に伝えた。
 小林家の三人は申し合わせたように「大丈夫です」と頷いた。今ここに救急車で運ばれ、すぐに手術に入る患者がいるのだ。いわゆる重症患者ということだろう。そんなところで風邪を診てもらうということに、家族そろって恐縮してしまう。せめて熱が40度以上あれば精神的いいわけになったろうに。
 急にあわただしくなってきた。受付の女性は電話を立て続けにかけて、手術や検査の手配を始めたようだ。そういうことは本来なら看護師の仕事だろうが、夜間は人が少ないので助け合うものらしい。さっ、と診察室から出てきた看護師は、廊下の椅子に腰掛けていた家族たち(患者ではなかった)に早口で状況を説明した。陽子たちにも『クモ膜下出血』という言葉がちらっと聞こえた。頭の手術を始めるらしい。テレビでは見たことのあるシュチエーションだが、実際にその場に居合わせるのは小林家の三人とも初めてだった。身内の死はいろいろあったが、いずれも老衰や慢性病の悪化で、心臓発作や脳溢血など、突発的でドラマチックなことは一度も経験がなかった。
 やがて診察室から白衣姿の長身の男性が出てきた。
「えっと、発熱の人は?」
 陽子が「こっちです」と慌てて手を上げた。
 医師は歩み寄り、素早く説明した。
「すみませんけど、今、救急で入った人の緊急手術があるので、少し待っていてください。脳外科に引き継いできますから。そうですね、たぶん20分ぐらい。なんだったら受付の人に言って、ベッドで休ませてもらっていてください」
「すみません、お忙しいところ」
「いえいえ」
 医師はすぐさまとって返し、ドアが開いたままの診察室から書類やレントゲンを持って移動の仕度を整えた。看護婦は患者の横たわる移動式の簡易ベッド(ストレッチャー)のロックを足ではずし、点滴のチューブが邪魔にならないように患者の腕の位置をずらすと、口元にピンクの汚物入れをあてがって、診察室から外に動かし始めた。廊下に出ると、受付の女性に「今から上がるって連絡して」と言い残し、医師と共にストレッチャーを押して速やかに通路の奥に消えていった。長椅子に座って話し合っていた家族が、あわてて追いかけていく。

 人々が去り、静かになると、受付の女性が出てきて、先ほどまでの緊張した雰囲気とは異なる優しい口調で言った。
「どうぞ、小林さん、ベッドの方に。毛布もありますから」
 小林一家は診察室に案内され、白いシーツの敷かれたベッドを勧められた。レザー張りの冷たい診察台ではなく、入院用のベッドと同じものだった。点滴をするときなどに使うのだろう。
「だいぶ、お熱があるんですよね。暖房、強めにしておきます。毛布を掛けて待っていてください」
 啓吾は「スミマセン」とぼそっと礼を言って、ダッフルコートをぬぎ、ベッドに横になった。
「本当にすみませんね」と母親が愛想のない息子の分もとりつくろうように、たっぷりの感謝を込めて言った。「でも、救急車で来てすぐに手術なんて、さすがに市民病院ですわね」
「めったにないことですけど、たまにはあるんですよ。ちょっとタイミングが悪かったですね。今、具合が悪いようでしたら別の看護師をよびますが、大丈夫ですか?」
「大丈夫よね、ケイちゃん?」
 啓吾はめんどくさそうに「……ん……」と発しただけ。母親は苦笑し、女性に頷いた。
「はい、大丈夫です。ホントにすみません」
「では、少し待っていてください。具合が悪くなったら遠慮なく声をかけてくださいね」
 女性が受付に戻るさいに、父親も「ホント、すみません」と思わず頭を下げた。頭を下げずにいられなかったのだ。風邪なんかで夜の救急外来に来ていることもそうだったが、半分大人のような息子を仰々(ぎょうぎょう)しくも父親・母親そろい踏みで連れてきたという、さらにその母親は啓吾を『子供のように』ベタベタと扱ってしまう、そういったことも含めて、なんだか家主として恥ずかしくて。
 しかし恥ずかしがっている父親にかまう間もなく、鳴り始めた電話を取るために、女性は急いで受付に戻っていった。

   5

「ケイちゃん、寒くない?」
 ベッド脇の陽子は、できる限りさりげなく質問した。
「そりゃ、寒いよ。熱があるんだから」
 陽子があたりを探ると、パーテーションで仕切られた奥に、点滴室を発見した。廊下への扉はべつにあったが、中でつながっていたのだ。薄暗い中に四台のベッドが並び、それぞれに二つ折りにされた布団がふわっと置いてある。行って触れてみると清潔そうな羽毛布団だった。毛布などより、こちらの方が絶対に温かい。陽子は迷うことなくモコモコとした布団のひとつを抱え、啓吾のベッドに持ってきてかけた。啓吾は礼を言うどころか、余計なことするなよ、と言いたげなまなざしをむけたが、実際には何も口に出さず、小さくため息をついて目を閉じた。
 陽子はベッド脇の丸椅子に腰掛けて、自分も上着を脱いだ。初めて入った救急外来の診察室だったが、こうやって息子と二人でいると(父親は廊下に戻って長椅子に腰掛けている)、なんだか自分たち専用の空間のような気がしてくる。消毒くさい病院の匂いも、なんとなく懐かしい。
 病院と言えば、啓吾が小さい頃は、もっぱら近くの三輪医院(みわいいん)におせわになっていた。老人から赤ちゃんまで、内科も外科も、なんでも診てしまうという、古いタイプの町医者だ。
 啓吾が小学一年のころ、陽子がコンビニに買い物に出いてるすきに、帰ってみたら引きつけをおこしていたことがあった。あわてて毛布ごと啓吾を抱(かか)えて、道に走り出た。最初に通りかかった車を無理矢理止めて、三輪医院まで送ってもらった。運転していたのは幸いにも親切なおじさんで、快(こころよ)く運んでくれた。
 三輪医院の大先生は、もう何年か前に引退していた。現在は娘の旦那さんがあとを継いで耳鼻科の専門医院になっている。耳鼻科の専門医院が近くにあることは悪いことではないけれど、内科は離れたところまで行く必要があり、昔より不便になったのは確かだった。ちなみに小児科ならばもっと遠くに行かなくてはならない。子育てするお母さんは大変だなぁ、と陽子は思わずにいられない。
 この近所は、10年でずいぶん変わってしまった。高速道路のインター近くに郊外型の大きなスーパーマーケットができて、それを中心に家電量販店、レンタルビデオショップ、ホームセンター、スポーツ用品店、ファミリーレストランなど、大きな建物が建ち並んだ。田舎なので駐車場なんて作り放題。サッカー場のようなアスファルト敷きの駐車場を囲んで、巨大看板を掲(かか)げる店がつらなり、やがて近くに真新しい住宅も増えて、バブル崩壊の時代の流れに逆行した大味な繁栄がにわかにやってきていた。駅前の商店街が寂(さび)れ、人の流れは郊外の大型店に集まる、ということは、この町のことだけではないのかもしれないが、なんとなく良いような悪いような、陽子としては複雑な気分だった。
「ねえ、ケイちゃん、ノド渇(かわ)かない?」
 と陽子が啓吾に声をかけた。
「ああ、すこし」
「何か買ってきてあげようか。どうせ待たされるみたいだし」
「うん、ありがとう」
 陽子は苦笑する。『ありがとう』だなんて、本当はものすごくノドが渇いていたのね。そうならそうって、言えばいいのに。だって、そんなこと言えるのも、今のうちだけなんだから。
 診察室を出た陽子は、受付の女性に声をかけた。
「すみません、うちの子、ノドが渇いたみたいなんですけど、何か飲ませてもいいですか?」
「ええ、もちろん」と女性は笑みを浮かべた。「お熱があるときは水分をたくさんとった方がいいんですよ」
「じゃあ、買ってこようと思うんですけど、このへんで自動販売機とか置いていますか?」
「通路の奥のロビーに、カップの販売機はあります。もしペットボトルの方がいいのでしたら、いったん外の道に出て、右に曲がったところにあります」
 陽子は後ろを振り返り、長椅子から立ち上がって話をうかがっていた父親に聞いた。
「どうかしら、やっぱり、ペットボトルの方がいいわよね。横になっていると、カップじゃ飲みにくそうだし」
「すぐ外にあるのかな?」
 受付の女性は「はい、道に出ると、すぐです」と頷いた。
「じゃあ、私、やっぱり外に買いに行ってくるわ。かまいませんよね?」
 父親も「いいですか?」と女性に確認のまなざしを送る。
「どうぞどうぞ」
 女性はやさしく微笑んだ。
「ね、お父さん、私が買いに行っている間に先生が戻ってきたら、ちゃんとお父さんが説明してあげてよね」
「わかってる。ていうか、あいつ、自分で説明するよ。子供じゃないんだから」
 その『子供じゃない』というストレートな表現が、陽子の心にグサリと突き刺さる。お願いだから今夜ぐらいはそんなことを言わないで、と不満をぶつけたくなる。そもそも今夜にいたってなお『普段と変わらない父親的態度のまま』であることが、まるで靴に入った小石のようにイライラを誘う。今日という日に、なんでそんなに冷静でいられるのだろう? 父親と息子の関係って、そういうものなのだろうか?
 陽子は、自分の心の中のイライラから逃避するように、上着にそでを通し、早足で病院の外に出た。ぞくっとするほど冷たい夜気(やき)が一気に身体を包みこむ。
 舗装された駐車場を下り、病院前の道に出ると、50ルートルほど先に自動販売機の明かりが見えた。受付の女の人は朗らかな笑顔で「すぐ」って言っていたけど、かなりあるじゃん。人気のない夜道を、上着の襟(えり)を両手で合わせて歩いていく。

 自動販売機に関しては、実は小林家にはちょっとした縁(えん)があった。家の前に新しくバス停ができたとき(高校が新設されてバス路線が変更されたのだ)、業者が来て「自動販売機を設置させてください」と頼んできた。特に投資も必要ないし、管理は半キロほど離れたコンビニの横山さんがやってくれるとのこと。土地だけ貸せば、売り上げのなにがしかが入ってくる、という美味しい話……のはずだった。「そういうサイドビジネスがあれば、車も少しいいのが買えるな」とお父さんもにこにこしていた。
 しかし実際は、いいことばかりではなかった。一番閉口(へいこう)したのが、空き缶やペットボトルを庭に投げ込まれることだった。その量がハンパではないのだ。一般的に自動販売機を設置した家は、そういうことになるものなのだろうか? どうも違うようだ。うちの場合、特に『投げ込みたくなる庭』だったらしい。空き缶入れがあってもムダだった。確かに普通は自動販売機を設置した家なら、そちら側に背の高い木を植えたり、何らかの遮へいを工夫したりするものだろう。しかし小林家としては、家の南側に背の高い木を植えるのは絶対にいやだった。せっかく広々した田舎にマイホームを持ったのに、そんな不健康でけちくさいことはしたくない。そこのところは夫婦で完全に意見が一致した。むしろオープンでありたかった。昼に家にいる陽子など、いっそバスを待っている人々にお茶でもふるまいたい気分だった。まあお茶は行き過ぎでも、そこに集う人たちがよい気分でバスを待てるように、バラや沈丁花(じんちょうげ)などを植えて、スタンド式の灰皿を用意して、ささやかながらも憩いの場になるよう工夫した。そういう憩いので場あれば、ついつい飲み物も買いたくなる、という下心もないわけではなかったけれど。たしかにバスを利用する人数に比べたら、飲み物の売り上げはいい方だったようだ。しかし一方で、心ない人たちからの投棄は続いた。
 一度、事件もあった。いくら別に管理者がいるからといって、おつりが出なかった人などはうちにやってくる。
 体格のいいやくざ風の男に因縁(いんねん)を付けられたことがあった。
「千円札を入れたんだが、何も出てこない、取り消そうとしても金も返ってこない」
 陽子は困った。そんなこと言われても、そういうことは管理している横山さんに何とかしてもらうしかないわけだが、電話で連絡しようとすると、男は「時間がないんだ、すぐに金を返せ」と強い姿勢で陽子に迫った。

 その日の午後、陽子は一人で家にいた。そういう時間をねらって、因縁をつけてきたのだろう。もちろん、こんなことでいちいち返金していたらたまらない。中を開けて確認すれば本当に入れたかどうかわかるはずだが、横山さんが鍵を持って来てくれるまでは、とても待っていてくれそうにない。男は大声で不満を述べて、電話すらさせてくれない。要するに他の人たちが集まってしまっては『いんねん』にならないからだろう。とりあえず陽子は外に出て、自動販売機のところに行った。自分で確認して、今の状態では購入のランプもついていないし、返金レバーを押してもなにも出てこないことを確認した。
「ほらみろ、千円札入れたら、そのままのみこまれちまった。何も出てこないだろ?」
 あなた、入れてないでしょ? と陽子は言い返したかったが、恐くてそこまでは言えない。どうしたらいいのかな、千円渡して引き取ってもらうしかないのかな、と悩んでいると、自転車で啓吾が現れた。中学からの帰りで、黒い詰め襟(えり)の制服姿だった。
「どうしたの?」
「この人が千円のみこまれちゃった、っていうの」
「開けてみればいいじゃん」
「でも、横山さん、すぐ来てくれるかなぁ……」
「自分で開けられるよ。鍵、預かっているんだから」
「え?」
「知らないの、母さん? こないだお父さんがスペアキーを業者の人から預かっていたよ。取ってくるから、待っていて」
 そうだったかしら……と陽子は考えてしまう。日中に家にいることが多いのは私なのだから、鍵を預かったのなら言っておいてくれなくては。
 啓吾は走って家に入っていったきり、なかなか帰ってこない。陽子はおしゃべりでごまかそうと必死になった。
「場所がわからないのかも。うちって、ほら、いい加減だから、そういうことってよくあるの。特に、お父さん! 車のキーとか、いつもどっか置いちゃって、いざってときに探し回るの。メガネとか、車のキーとか、おさいふとか。おたくも、そんな感じじゃありません? 申し訳ありませんわね。開ければちゃんとお金は出てくると思いますので、少しお待ちくださいね。機械って、やっぱり信用おけないところもありますからね。カンペキってことはないですよね。中に入って、どこかに詰まるってこと、この機械も一度もなかったってことはなくて、今までも二回ぐらいだったかしら、ほら、この道の角を曲がったところにあるコンビニのご主人が管理してくれているんでけど、あちらにお願いして開けてもらったら、やっぱりお札がねじれて詰まっていたって、そんなことも実際にありましたから、本当に入れたなら、今度もきっと開けてみれば、おたくのお金が見つかるって思いますの。お急ぎなのはよくわかりますけど、やはりこういうことは、きちんと確認することも大事なことですからね、ご迷惑おかけして本当に申し訳ないと思いますが、うちの息子が鍵を見つけて戻ってくるまで、ちょっとお待ちくださいね」
 啓吾の姿を見てから勇気がわき、しゃべりが調子に乗ってきた陽子だった。
 やがて、玄関とは違い、家の裏側から出てきた啓吾は、思いっきり息を切らしていた。「はい」と鍵はちゃんと持ってきてくれた。陽子は気がついた。家にあるなんて、最初から嘘だったのだ。裏から回って、走ってコンビニまで鍵を取ってきてくれた。さすがサッカー部!
 機械の扉を開けると、案の定、札は詰まっていなかった。
「すみませんけど、ありませんね」
「おいおい、ありませんね、じゃねーよ。オレは本当に入れたんだから。詰まったんじゃなくて、もう奥に入っちゃったんじゃないの? 電気かなんかの故障じゃないの? 修理屋を呼ばないと正しいことはわからないんじゃないの? とにかく、オレはね、そこまで待てないわけ。とりあえず金は返してもらうよ。オーナーだろ、それが筋ってもんだ」
 陽子は「ふー」と大きなため息をついて啓吾を見た。
「おじさん」と啓吾は毅然(きぜん)とした態度で言った。走ってきたせいか、目がはつらつと輝いている。「ほんとうは、金、入れてねんじゃねーの? そういうの、困るんだけど。はっきり言っとくけどさ、うちの父さん、県警だよ。県のケイサツショ。もしもこれ以上なにか言うなら、とりあえず警察の人に来てもらうしかないと思うんだけど、それでもいいのかなぁ?」
「嘘つくな」
「ほんとほんと。警察の人って、まあ、いつもせっせと働くとは限らないけど、うちの父さんの声がかかったら、かなり話がデカくなっちゃうよ。だって、うち、刑事課の部長だって、よく遊びに来るし。これ、マジだから、悪いけど」
 男は「ちぇ」と悪態(あくたい)をついた。「金を入れたのは本当だけどよ、こっちだってヒマじゃねえんだ。千円ぐらいでいつまでも時間を無駄にしているわけにはいかねんだよ、バーカ」
 男は虚勢(きょせい)を張り、いかにもちんぴら風のガニマタ姿で去っていった。
「あとから出てきたら連絡しますが」
 啓吾が声をかけると、男は無視して去っていった。
 陽子は安心感から力が抜け、膝(ひざ)ががくがくと震えてきた。
「大丈夫だよ、母さん」と啓吾は言った。「ああいうやつ、態度でかいけど、権力には弱いんだ。県警って言っとけば、もう二度と来ないよ」
「そうかなぁ……」
「大丈夫、大丈夫。ま、ジミに信号整備してたって、県警は県警だから」

 陽子は思わぬ回想に一人でにやけて、夜道にぽつんと立っている自動販売機のところまで来た。そこにスポーツドリンクのペットボトルがあるのを知ってホッとした。風邪で熱があるときには、やっぱりスポーツドリンクでしょう。
 でも、と、また余計なことを考えてしまう。啓吾はペプシコーラが好きだった。小さいときからサッカーのあとはコーラを飲みたがり、母親としては歯が弱くなる気がしてあまり歓迎はしなかったのだが、試合のあとだけは「おつかれ」と言ってよく買ってあげた。小学生のころはコーラでもペプシでも気にしなかったが、中学に入ってからはペプシ派になった。うちの自動販売機に入っていたのがペプシだったから、ということもあるけれど、基本的に強者より弱者を応援するタイプなのだ。それは父親ゆずりの性格だった。父親も「金で選手をかき集めるジャイアンツが大嫌いだ」と広言し、プロ野球は昔から日本ハムを応援していた。
 陽子は自分の知り合いには日ハムファンを一人も知らなかったが、旦那には日ハムつながりの友人たちがわりといて、しかもその集まりには意外に若い女の子もいるらしく、日ハムが勝った日に日ハム応援飲み会から帰ってくると、きまって尋常(じんじょう)でなく幸せそうに顔がほころんでいた。本人は「テレビを見ながら飲んできただけ」とは言うけれど、まるで日ハムの勝利を祝し、日ハムファンの若い女の子のオッパイをモミモミさせてもらい、そのフレッシュな手触りの余韻に帰宅してからもひたりきっている、みたいな顔。(そういう説明を具体的に聞かされたわけではないが、それくらい幸せそうな顔)妻としては、嫉妬を通り越し、あきれて苦笑するしかない。
 息子のサッカーに関しては「鹿島アントラーズの本山(もとやま)選手みたいだ」と母親としては思っていた。口数は少ないけど、リフティングやドリブルは上手い。まわりとコミュニケーションとるよりも、個人プレイで状況を打開するタイプ。それでいてリーダーっぽく出しゃばることはない。『ルパン三世』の石川五右衛門(いしかわごえもん)のようなクールな格好良さ。なんで自分の息子が、朗らかな母親と正反対なのか、陽子にはさっぱり理解できなかったが、試合で相手ディフェンダーを巧妙(こうみょう)に抜いたりすると、思わず興奮して悲鳴のような声援を送ってしまう。啓吾はやせ形で、あまり筋力がある方ではないが、あれだけボール扱いが上手かったらプロにだってなれるんじゃないか、と陽子は密かに期待していた。
 マスコミに追いかけられるJリーガーの母親!
 しかし高校に進んでからはサッカーを止め、それまでとは正反対の不健康な生活になってしまった。ゲームばかりして、いつも顔色が悪い。中学時代のような健康的な輝きはない。とくに新しいノート型パソコンを息子専用に買って以来、デザインしたり、音楽を作ったり、小説みたいなものを書いたり、とにかく一人で熱中している。親が黙っていると風呂に入ることも忘れて、明け方まで部屋でなにかしている。
 さすがにこれには父親もキレて、以来、ゲームを巡る家庭内戦争が続いているわけだ。
 中学時代の啓吾は、確かに輝いていた。あのまま大人になっていってくれれば言うことないのに、なかなか思い通りにはいかないものだ。とりあえず薬物とか窃盗とか、犯罪まがいのトラブルとは縁がないようなので、まだましとは思うけれど……。
 スポーツドリンクを一本買った陽子は、お父さんも何か飲むかしら、と考えた。しかし家を出る直前までのんびりお茶を啜(すす)っていたことを思い出し、必要ないわね、あの人は、と結論した。自分も冷たいものはあまり飲みたくない。かといってこんな時間に缶コーヒーを飲む気にもなれなかった。
 やはり心残りなのはペプシコーラだ。
 啓吾は明日から受験で東京に行ってしまう。こういうときこそ一番好きだったものを買ってあげたいと考えるのは親バカというものだろうか。自動販売機には啓吾がひいきにしているペプシはなかった。見回してもこの辺りに自動販売機はこれ一台だけだった。しかしコカコーラとペプシの違いなんて、熱があるときに大きな問題ではない気がして、陽子はお金を追加し、500ミリのペットボトルのコーラも一本買ってしまった。だいたい150円の飲み物に、いちいち迷っていてもしょうがない。今夜はその1000倍の値段のものだって、ダメもとでポンと買ってあげたい気分なのだ。役に立てばラッキーだし、そうでなくてもべつにかまわない。可能性があることにはチャレンジする。そういうポジティブさは素晴らしいし、その気持ちの源泉(げんせん)になってくれている啓吾は、やはり陽子にとって大切な存在なのだ。
 冷たい二本のペットボトル。三人家族で二本のペットボトルというのは中途半端な気分だったが、こういうときに自分がすっきりしたくて人数分買ったりすると、あとでまたいろいろ文句を言われるのが常だった。
「なんで欲しいっていってないものまで買ってくるんだよ」「そういうのは気が利くって言うんじゃなくて、おせっかいって言うんだよ」「欲しかったら自分で買うよ」
 そういうことはさんざん経験してきた。思い出すと腹が立つ。三人だから三つというような考えはもうしない。それでいいのだ。

 救急外来の自動ドアをくぐると、再び病院の匂いと温かさに包まれた。まだ旦那は一人で通路の長椅子に腰掛けている。陽子が「先生来た?」と聞くと、「まだにきまってるよ」とぞんざいに首を振った。
「ケイちゃん」と陽子は上着を脱いで診察室に入った。「飲み物買ってきた。スポーツドリンクがいいと思うんだけど、コーラも、一応ね。熱がある時って、こういうのも美味しいかもしれないと思って。あなた、コーラ好きでしょ。好きな方、飲んでいいわよ」
「そっちでいい」
 啓吾は布団から手を出して、スポーツドリンクを指さした。
「じゃあ、ちょっと起き上がりなさいよ。お母さんが開けてあげるから」
「いいよ、別に開けなくて」
 啓吾は起き上がると、いらついた仕草でペットボトルを陽子の手から奪った。陽子も、夜道で回想した勢いで余計なこと言っちゃった、と気づいたけれど、仕方がない。
 啓吾は粗野(そや)な手つきでキャップをねじり、マスクをあごまで下ろしてからから、ボトルを口に当てて一気に半分ほど飲んだ。
「先生、おそいわね」
 母親のつぶやきに、啓吾は何も応えずため息をつく。当たり前のことしか口にできない無能な母親。先生が遅くなるのはわかっていること。そう言い残して去っていき、ベッドで横になっていていいと言ったのだから。それはまあ、そうだ。啓吾のイライラは、陽子にも理解できた。今夜は特別な夜だし、できればもっと気の利いたことを言ってあげたい。ロール・プレイング・ゲームの主人公の母親なら、きっと神聖で意味深な台詞(せりふ)を語っただろう。

〔あなたは私たちの愛の結晶なのよ。風邪などにまけず大きく羽ばたくのです〕

 うん~なんだか考えれば考えるほどヘンな感じよね、今日の私って、と陽子は一人で苦笑し、座っていた丸椅子から立ち上がった。
「お父さんがコーラ飲むかもしれないから、渡してくるわね」
「……ああ……」

1 2 3 4 5