夢の終わり

    2

 母親・陽子は、息子から差し出された体温計の数字を見て「なにこれ、どうしましょ」とあわてた。
 受験の緊張で熱が出ちゃった? まさか、ちがうわよね。このタイミングで風邪? 冗談やめて、と思ったが、ぐったりとして目を潤ませている息子の姿は、やはりまちがいなく病人のものだった。
 一瞬あわてたが、そこは生活力と行動力が自慢の陽子のこと、息子の不養生を批難するなどという不毛な発言はすっ飛ばして、すぐさま時間外診療をやっているはずだった市民病院を思いだし、アイウエオ順の番号メモ帳を調べて電話をかけた。
「もしもし、すみません、もう普通の診察は終わっている時間だと思うんですが、今からでも診てもらえないでしょうか?」
「どうされました?」
 電話から聞こえたきたのは律儀(りちぎ)そうな女性の声だった。
「学校から帰ってきて熱を測ったら三九度もあって、でも明日から東京に行かなきゃいけないんです、受験生なので」
「ご本人さまですか?」
「いいえ、私じゃなくて、うちの息子です」
「年齢は?」
「高三で、17歳」
「17歳でしたら、大丈夫ですよ。当直の内科医が対応しますので」
 陽子はホッとした。
「すみません、よろしくお願いします」
「いらっしゃる前に知っておいてもらいたいのですが、夜間なので応急の対応ということになります。日中の診療と違い、持ち帰りのお薬は多くは出せないと思いますが、よろしいですか?」
「はい、とりあえず」
「以前にこちらにかかられたことはありますか?」
「はい」
「お名前をいただけましたら、カルテを用意しておきますが」
 陽子は息子の名前と生年月日を伝え、さらに診察券に記載されていた患者番号も読み上げた。
「最後はいつ頃かかられました?」
 いつだっけ、と陽子は考える。子供の時に腕の骨折でお世話になったことは憶えているけれど、たいていは近くの個人病院に行くので……。
「ねえ」と陽子は受話器を手で押さえ、啓吾に声をかけた。「ケイちゃん、最後に市民病院に行ったの、いつだったか憶えている?」
「えっと、去年、膝(ひざ)が痛くてレントゲンとってもらったよ」
 思い出した。心当たりのない痛みで心配したけど、診てもらったらなんでもなかったやつね。
「去年です。ていうか、もう一昨年ですけど、膝の痛みで診てもらったと思います」
「どのくらいでいらっしゃいますか?」
「ちょっと仕度して、車で行くから、20分ぐらいだと思います」
「お熱のある方は、マスクをしてきてくださいね」
「はい」
「では、どうぞ温かくしておいでください」
「よろしくお願いします」
 陽子は電話を切り、やっぱり相談してよかった、と思った。『胸をなでおろす』とは、まさにこのことだ。電話の対応も親切だったし。「温かくしておいでください」なんて、病院以外ではありえないやさしい気配り。さすが、評判のいい市民病院、たよりになる。
 グッジョブ私、と思いながら、息子に目をやると、啓吾は居間のソファーに移り、赤い顔でぐったりと座っていた。
 あの子、食事中無口だったのは、てっきり試験の緊張のせいかと思ったけど、まさか病気だったなんて。せっかくの夕食もおかわりをしなかったし……
 今日は陽子自慢のホワイトシチューだった。新鮮な小麦粉を調達してバターで炒めるところからはじめる本物の手料理だったが、あまり美味しそうには食べてくれなかった。いや、熱があったことを思えば、あれでもおいしそうに食べてくれた方かもしれない。
「ねえねえ、ほら、内科の先生が待っているから、早くおいでって。上着来て用意しなさい」

 しかし息子はぐったりしたまま。

 陽子は矛先を旦那にむける。熱があるわけでもないのに、せっかくのシチューを「美味しい」の一言も言わずに黙々と食べ終えて、ダイニングの椅子に腰掛けたままゆったりとお茶をすすっている無頓着男。
「ねえ、おとうさん、市民病院オッケーだって。車、用意してもらっていい?」
「そうか、よかったな、じゃあ、いくか」
「ベツにさあ」と啓吾は不満げに言った。「慌てることないよ。むこうだって、いちいち待ってないと思うよ、ただの風邪ぐらいでさぁ」
「でも、ちゃんとカルテは用意してくれるって言っていたわよ。診察券の番号も伝えたし」
 陽子はてきぱきと廊下のクローゼットから、息子のダッフルコートと、自分のダウンジャケットを取り出した。面倒くさがりの旦那の着るものは、万年(まんねん)出しっぱなしのジャンパーが、ソファーの上かどこかに置いてあるはず。自分で探して着てもらうのがいつものパターン。啓吾には、もうひとつ、重ね着できるようにふわっとしたセーターを差し出した。
「ほら、車の中は寒いから、セーター、もう一枚着ていきなさいよ」
「いらない」と啓吾は首を振った。「二枚も着たら息苦しくて死にそうになる」
「でも、熱があるんでしょ? 寒いんでしょ? 着ていった方がいいと母さんは思うけどな」
 啓吾は頭を後ろに倒し、ソファーにもたれて目を閉じた。
 そして無言。
 やはりよけいなことだったかな、と反省。陽子は、台所の引き出しから買い置きの不織布(ふしょくふ)マスクを取り出しながら、いつもの悲しいムカツキを感じた。気を使うことしか能のない母親。そんな自分自身への嫌悪感も含めて。
 もし、息子が昔と同じように普通の態度だったら、きっと自分も普通でいられただろう。しかし息子が離れていこうとするから、ついつい小うるさい母親役を演じてしまう。

   3 

「今日はやっぱり学校を休めばよかったのよね」
 と、対向車のない閑散とした夜道を走る車の中で、助手席の陽子はふと口にした。
「朝から調子悪かったのか?」
 と平凡な国産小型車のハンドルを握る旦那がおだやかに質問した。
「朝からじゃなくて、昨日からよ。いや、違う、一昨日から。鼻水すすって。受験生なんだから早めに医者に行きなさい、って言っていたのに、大丈夫だ、って強情はって。これで本当に明日から東京に行けるのかしら」
 赤信号にさしかかって車が止まると、ウィンカーのカチカチという音が暗い車内に響いた。
「まあ、どうしても明日行く必要はないんだろ? 一日ぐらい遅らせてもいいんじゃないか。試験は明後日からだったと思うが」
「でもね、やっぱり初めての東京だし、道ぐらい確認しておかないと当日の朝が不安よ」
「初めてじゃない」とバックシートから啓吾が口を挟(はさ)んだ。「一人で行くのが初めてってだけ」
「同じことよ、ねぇ、お父さん」
「まあなぁ……試験が午後からならいいけど、朝からだもんな。ラッシュで混んでいるときに電車間違えて遅刻したらシャレにならん。実際、あっちの満員電車はすごいからな。降りたくなくても駅に着くと押し出されたりするし」
「だからね、今日はやっぱり家で寝ている方がよかったのよ。早くお医者さんに行って」
「わかってるよ」と啓吾がいらついた声で言った。「悪かったと思っているよ」
 陽子はあきらめたような声でつぶやいた。「まあ、あんたも卒業間近で、いろいろやることはあるんでしょうけどね……」
 息子がぎりぎりまで登校にこだわるのは、必ずしも勉強のためではないことを陽子は察していた。実際、この時期の授業なんて、ほとんど自習だろう。
 勉強以外の理由……
 啓吾はぼくとつとしたゲームオタク・タイプで、女の子に人気があるなんて話は一度も聞いたことがなかったけれど、ここにきてなんだか行動がおかしい。何かがある。きっとそれは異性の存在が絡んでいるにちがいない。

 啓吾の子供の頃からのお友達で、同じ高校に進んだ女子なら、陽子も何人か知っていた。例えば、長沢さんのところの恵里(えり)ちゃん。田舎風の丸顔ショートヘアで、お世事にも美人とはいえない女の子だけど、いつも朗らかで、かしこくて、とっても親切。あんな子が息子のガールフレンドだったらいいのになと、母親なりに思うところはないわけではなかった。もしも長沢恵里ちゃんみたいな明るい子が嫁だったら、決していがみ合いなんて起こらずに、老後まで楽しくつきあっていけるだろう。
 そもそも、自分たち夫婦も完璧さとはほど遠いでこぼこコンビ。特別に美人でもないし頭脳明晰でもないけれど朗らかさが取り柄の妻と、不器用だけど真面目な夫。
 そこから生まれた啓吾は、性格だけは父親似だった。職人っぽくて、ゲームにやたらと詳しい。将来はゲームに関わる仕事に就きたいと希望している。性格はよく似ているのに、将来のことになるといつも父と子は喧嘩(けんか)になる。父親は「ゲームは仮想のものであり男が一生かけて関わる仕事じゃない」と断言してはばからないし、息子はそういう父親の考えを「古い、時代遅れ」と批判する。古いか新しいかということになれば、確かに息子の主張する通りかもしれないが、母親としては「本当にゲーム業界で一生食べていけるの?」という疑問は残ってしまう。確かに今はゲームが産業として大きなものになっているかもしれないけれど、何十年か後にもっと新しいものが発明されて廃(すた)れていったらどうするの? そんな将来の不安など持たずに突っ走るのが、若さというもの?
 いずれにしても、理想を追ってみるということはあるものだ。きっと異性に関しても、そんな感じなのだろう……
 陽子は情報がとぼしいなかで、密かに予想は立てていた。早い話『片思い』というやつだ。朗らかさが取り柄の陽子としては「つき合う人ができたら遠慮なく家に招待していいからね」と、幼少からなんども教え諭してあるつもりだったし、それは息子なりに了解してくれているはずだったが、それなのにあえてなにも語らず、むっつりと沈黙しているということは、ようするに『上手くいっていない』のだ。
 理想を求める、ってやつ?
 しかし、そういうときこそ、女性である母親に相談すればいいのに……でも、やっぱり、ダメかも。相談されたら、あせって、ちゃかしてしまいそう。そういう大人の焦りが、デリケートな少年には一番醜(みにく)く映るだろう。
 でも、どうだろう。時代が時代だけに、逆に、もうエッチなことまでしてしまって、公明正大に親には紹介できない状況だったりするとか?
 その可能性は、完全には否定できない。だいたいこの大切な時期に風邪にかかるというのも、尻軽(しりがる)な女の子に移されたって可能性は大いにあり得る。キスや、手をにぎっても、感染はするはず。
 啓吾には、もっと自分を大切にしてもらいたい。……しかし、もしも自分が高校生で、親から「もっと自分を大切にしなさい」と言われたら、絶対に反発するだろう。そんなことわかってるよ、大切にするばっかで、イシバシわたってたら、なんにも話が進まないよ、と。……わかるんだけど、わかっていても、母親としては納得できない。
 いつもながら、ため息をつくしかないって感じなのよね、と陽子は、車外に続く真っ暗な田舎の風景を見つめながら思った。

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