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 GREAT HERO
『グレートヒーロー』



 1章  来訪者



 1


 人間って、なんだろう? 感情があるから人間なのか? いや、例えば、猫にも感情はあると思う。考えてみてほしい。オレになついている猫がいて、オレが引越しでそこを去るとき、猫は悲しむだろうか?「もう会えないんだぞ、さよなら」と心を込めて言っても、猫はきょとんとしているだろう。
 しかしそれは感情がないからではない。オレの説明、つまり言葉がわからないからだ。『引っ越す』とはどういうことなのか、それが理解出来ないから、きょとんとしてしまう。しかし、もし「それが最後の時」と理解できれば、猫だって悲しんで涙を流すだろう。
 いや、まあ、猫のことはいいんだけど。

 オレの名前はリュウ、北部の小さな村の出身だ。
 オレは、今、また、あの村に帰ろうとしている。精神的にひどく落ち込みながら。その落ち込みの理由を、例えば猫に告げても、猫はきょとんとしているだけだろう。しかし、それは、オレの気持ちに共感する能力がないからではない。言葉が理解出来ないからだ。
 さて、そう考えてみると、人間と猫とでは、どちらが幸せなのだろう?


 2

  
 さて、考えごとをするのはいいが、現実から目を背けてばかりもいられない、というわけで、さらっと、オレの置かれた状況をおさらいしておこう。
 今、オレは国の高官試験に落ちたばかりだ。正確にはちょうど一日前、総務省入り口の掲示板に張り出された合格者リストに、オレの番号がぬけていた。そこにはオレの四桁の数字がないだけではなく、前に四人、後ろに五人、自分もふくめて一◯人が、ごっそりとぬけていた。競争率の高い試験だし、集まった者たちの中で合格できたのはごく少数だった。人数は少ないが、その喜びに輝く存在感は圧倒的で、オレたち敗北者たちは雨水に流される落ち葉のように、うつむいてぞろぞろと会場を後にした。
 ま、田舎者のオレが国の高官試験なんて、もともと受かるかどうかは半信半疑ではあった。高望みだろう、とも思った。しかし不合格という結果が出てしまうと、やはり落ち込む。
 しかし正直なところ、オレが落ち込む理由はそれだけではない。もしこれが答案を『郵送』するだけだったら、ここまで深く落ち込むことはなかっただろう。
 今回の受験のために、オレは首都ルルに一週間滞在した。試験前々日に到着し、街中の宿を取り、二日間にわたる試験ののち、さらに二日後の結果発表まで。おかげで首都の便利さや美しさを、バッチリと思い知らされてしまった。
 もちろんルルは世界的に名を知られた観光都市だ。なにかと美しいのは当前なのだが、じつは美しいのは街の風景だけではなかった。試験会場に集まっていた女性受験者たちが、これまた都会っぽくて、知的で、魅力的だったのだ。しなやかなカーディガンや、チェック模様のベストなどを、さらりと真面目に着こなした女性たち。
 なかでも、最終日にオレの横に座った女の子などは、特にかっこよかった。つややかなストレートヘアを肩下まで伸ばし、通路側のオレが問題用紙を彼女に渡すと、横に流した前髪の奥から、賢そうな澄んだ眼差しをのぞかせ、淑やかな笑顔を返してくる。試験が始まると、目を細めたクールな表情で問題文を読み、サラサラとペンを走らせていく。オレは答えに悩むと、頬杖をつき、何度も彼女の白く整った横顔を盗み見てしまった。
 田舎では考えられない高貴で知的な女性たち。オレだって試験に受かれば、こんな人たちといっしょに仕事をするんだ……そんな期待もあったわけ。

 すべて夢と消えましたけど。


 3


 今はルル発の夜行列車から、ちっぽけな乗合馬車に乗り換え、馬糞の香りがホカホカと漂う郷里に戻ってきたところ。ティエコという北部の小さな村だ。馬車は昼前にシラー湖南端の停車場に着いた。でかいカゴを持った行商人たちといっしょに下りて、あとはのんびり我が家まで歩いて帰る。
 オレはカバンのストラップを肩にかけて歩き始めると、ずっと意地でしていたネクタイを、ようやく外した。
 とにかく『終わった』のだ。
 そう考えたら、急に思いがけず、ズドンと悲しみ襲われた。
 もどってきたら都会のことを忘れて楽になるかと思ったけれど、現実はむしろ逆だった。
 そんなオレの気持ちに付け入るように、田舎の春は遠慮なく盛大にまとわりついてくる。むせかえるような花々や、草木の匂い。飛び交う虫の羽音もひっきりなしで、細目をキープしていないと目の中に飛び込んでくる。
 まあ、神様のもとでは、羽虫も、オレも、ちっぽけな存在という意味では、大差ないか。

 不ぞろいの石畳をつたって、教会の脇から裏庭に入ると
「おかえり」
 と、母さんがいつもの朗らかな笑顔で迎えてくれた。小さなシャベルを手に持っている。花壇の手入れをしていたようだ。
「頑張ったね。一人で寂しくなかったかい?」
「一人じゃないよ。むこうにはたくさん人がいた。アリの大群のように、どこをむいても人だらけ。都会ってのはすごいところだ」
 オレは自虐気味に笑った。
「そうかい、疲れたろ。今日はゆっくりおし」
「うん、今日はね。でも、明日からはどうしよう?」
「ヒマなら小さい子たちの勉強でも見ておやりよ」
「あのさぁ、オレ、勉強は、もういいよ。限界を知らされたし」
「そしたら、町の逆立ち大会にでも挑戦するかい?」
「夏祭りの?」
「そうさ、父さんは優勝したことがあるんだよ」
「うそ!」
 うちの父さんの体型で逆立ちなんかしたら冗談抜きで腕が折れる。
「ずっと昔、太る前だけどね。リュウも今から練習すれば間に合うわ、きっと」
「オレはいいよ。身体を鍛えるのは好きだけど、逆立ちは、つつしんで遠慮。やっぱ、やるならヨットの方が好きだ」
「そうだね、それがあんたらしいね」
 説明はあとに回すが、オレたち兄弟はスマートな競技用ヨットを所有している。湖の南端のボート屋に預かってもらっている。
「ヨットも、ルルみたいな都会に行けば、大会があるんだよな」
 と、オレは未練がましくあの美しい首都の名前を口に出してしまった。そういえば、もうじき『春の女王祭』の季節が始まる。世界中の腕自慢が集うヨットレースの祭典だ。
「あんた、試験だったら一人で行けばいいけど、ヨットレースじゃ、わざわざ『グレートヒーロー』を持ってかなきゃいけないよ」
「だね。船まで持って行くのは無理だね。行きはともかく、帰りが大変だ。それに参加料なんかもバカ高いみたいだし。まあ、オレはレースに出たくてヨットが好きってわけじゃないから、べつにいいんだけどね」
「くやしいかい?」
「まあ……そりゃあ、少しは」
 落ち込むオレの気持ちを引き受けてくれるかのように、母さんは両手を腰にあてて身体を起こし、花壇をすっきりした顔でみわたした。
「とりあえず、お昼でも食べて、一眠りするだろ?」
「うん。オレ、夜行列車は全然眠れなかったよ」
「行く前は、楽しみにしていたのにね。夜行列車」
「そうだね。でも、乗ってみると、狭いし、暑いし、疲れた」
「おつかれさま。でもね、私は、戻ってきてくれたことも、神さまのはからいだと思っているよ。そりゃ、ちょっとは残念だけど、リュウにはリュウの人生があるはずさ。べつに、国の役人になるだけがすべてじゃない。そうでしょ?」
「そりゃそうだけど」とオレは苦笑した。「母さんがそんなふうに言うのは、ちょっと違うんじゃね?」
「そうでもないさ。試験より大切なことは、いっぱいあるよ。これから大人になっていけば、あんたもきっとわかるよ。さ、中に入ろう」
「うん」

 オレは一人だけの食堂で、温かいシチューをたっぷり食べたあと、かるくシャワーを浴びて、窓を開け放った屋根裏部屋に上がった。まだ取り込んだばかりとわかる太陽の匂いのする布団に横になると、天国のようにふわふわだ。くやしいほど心地よすぎて、一瞬で抵抗する気が失せてしまう。
 目を閉じると、遠くから釘をトンカチでたたく音が、霞がかかったようにぼんやりと響いてきて、子守歌のように、オレの神経を麻痺させていく……

 オレの家はアムン教の教会だ。
 御世辞にも広いとはいえない住居スペースに、おおぜいの家族がむつまじく暮らしている。実際、オレの弟や妹は、説明するのもめんどうなほどたくさんいる。これには事情があって、最初はオレと弟のキーロウの二人だけだったのだ。オレたちの本当の両親は、オレが七歳のときにそろって行方不明になり、子供のいなかった教会夫婦のもとに預けられたわけだが、さいわいオレたちは優しく接してくれる新しい両親にすんなり馴染むことができた。それに味を占めた父さんは、親のいない幼子を預かるのが趣味みたいな状況になってきたのだ。教会だから、いいんだけど。


 4


 熟睡していた。
 完全なる熟睡だった。
 その安眠が、突然、弟の無神経な怒鳴り声で中断させられた。
「リュウにい、大変だ!」
「ん……」
「起きて!」
「な、なんだよ、キーロウ……」
「おれたちの『グレートヒーロー』を出せってやつが現れた」
「はあ?」
 弟の言う『グレートヒーロー』とは、オレたち兄弟が所有する二人乗りヨットのことだ。スマートな競技用タイプで、オレが七歳の時にいなくなった両親の形見だ。湖の南端のボート屋に預けてある。
「大丈夫だよ。あれはオレたちの宝物だ。知らない相手に勝手に使わせるわけないだろ……むにゃむにゃ……」
「ところが、どっかから来たお偉いさんらしくてさ、問答無用って感じなんだよ。やばいよ。早く!」
「はあ?」
「急いで行かないと、使われちゃうよ。へたしたら『気に入った』とかいって、もってかれちゃうよ。いいの、それでも!」
「誰だよ、それ」
「知らないよ。でもフルブラウトさん、本気で困ってた。断れないみたいだったよ」
「もー、なんだよ」とオレは身体を起こした。「ったく、めんどくせーなー。とりあえず電話して『使うな』って言ってやる」
「だからぁ、そういう問題じゃないんだって。リュウにいが行かないとダメなんだよ!」
「どうして」
「どうしても!」
「なんなんだよ、もー」
 オレは髪の毛をかきむしった。外はまだ明るい。オレが眠ったのは、おそらく一時間以上二時間未満、最も半端なタイミングだ。真面目に身体がきしむ。しかし弟がいつになく本気なのは確かに伝わってきた。
 オレは寝床から飛び降り、速攻で服を着た。そして自転車でボート屋へと急いだ。
  
 でこぼこの田舎道の途中から、早くも困った仕草のフルブラウトさんの姿が見えてきた。ボート屋のフルブラウトさんは、今回のオレの高官試験のために歴史を教えてくれた人だ。田舎者のわりに知識はあるのだが、威厳があるタイプではない。いつもくたびれた灰色のシャツを着て、釣り客に餌を売ったり、ボートを貸すことで平和的に生計を立てている。
 そんな善良なオヤジを困らせている相手は、ほとんどオレと同じくらいの年齢に見えた。子供というには大人だが、大人というには若すぎる。もちろん見たことがないよそ者だ。脇に執事のような黒服の男が一人ひかえている。
「おーい、ちょっとまった! オレたちの船に手を出すな!」
 オレは自転車の後輪をドリフトさせて停止し、脇にころがすと、乱れた息をおさえて、やつらの前に立った。
「フルブラウトさん、なんだよ、こりゃ、いったい」
「おお、リュウ」とフルブラウトさんは喜んだ。「ワシもな、ボート屋として、おまえらの信頼を裏切るようなことはしとうない。しとうないが……」
 善良なおやじの戸惑いをよそに、クラシカルな服装の若者が、じろじろとオレを眺めてきた。青と黒のチェック模様のタイトなジャケット、そして胸元には肌色のスカーフ。服装だけでなく、髪や肌もカンペキに整いまくっている。
 やつは、まるでやつ自身が真のヨットの所有者であるかのように、台車にのせた『グレートヒーロー』の脇に立って、クールに言い放った。
「君たちが、この船の持ち主だというのかい?」


 5


「当然だろ、これは、オレたちのものだ」
「本当に?」
「『本当に?』ってなんだよ。バカにしてんのか? そんなもん、本当に決まってるじゃねえか。誰がなんと言おうと『グレートヒーロー』は、オレたちの『グレートヒーロー』だ」
「君たちは、なにか、勘違いしているようだな」
「はあ?」
 謎の少年は、外したマストやセールをのせてある『グレートヒーロー』の真っ白い船縁に手をかけて、珍しい昆虫を眺めるかのような表情でオレたちの方を見た。
「君たちは、この船の本当の意味を知っているのかい?」
「意味? 『偉大な英雄』って意味だ。きまってんだろ、そんなの」
「違う。名前のことではない。この船の、真の存在意義を、さ」
「誰にも負けない二人乗りのヨットだ。モンクあるか」
「その素朴な回答は、ウケをねらって、わざと言っているのかい?」
 と、やつはあわれむような笑みを浮かべた。
「てめえ、ケンカ売ってんのか? ある意味、ちょうどいいぞ。オレのムカムカイライラ度は、今まさに最高潮に達しようとしている。おまえには関係ない様々な事情も含めて、今、全てをこのコブシに込めさせてもらうぜ」
「いや、暴力はやめよう」とやつは苦笑した。「気を悪くしたのなら謝る。君が暴力を振るうと、君がただでは済まない」
 オレはやつの貧弱そうな身体を眺めた。
「てめえ、なに自信たっぷりなんだよ」
「だって、ねえ」
 と、やつは横にいた黒服の男に目配せした。そのスーツに隠された身体が、常人離れした強靭なものであることは、じっとたたずむ気配からも察せられた。『なにかとんでもなくやばい人』というオーラが、見えない湯気のように漂っている。
「ボ、ボティーガードなんてズルイじゃないか」
「ボディーガードではないよ。執事のポビーだ。以後、よろしく」
 やつに紹介された男が、黙って手をさし出してくる。その手を握ってみると、何もかもが根本的に違うと悟らされるほどの力強さだった。爪が分厚く白濁しているのは、打撃で痛め続けてきた証だろう。まあ、オレも内心、暴力はよくないと思っていたんだ。
「とにかく、ダメなものはダメだ。これは使わせない。しかし、挑戦なら受けてやるぜ。さっさと自分の船を持ってこい」
「そんなもの、あるわけないじゃないか」
「だったら、ダメだ。こいつを勝手に使わせるなんてことは、ゼッタイにできねえ。議論終了」
「そうかい?」
 やつは口元に余裕の笑みを浮かべ、何かを決断したかのような視線をオレに向けてきた。
「僕はエミリオ。よろしく。君たちの船に、スキッパーとして乗せてもらうことを、正式にお願いする」
 礼儀正しい言葉遣いと、知的で澄んだ眼差しに、オレは急にクラクラしてきた。なんだ、こいつ、魔法でも使えるのか……
「じょ、じょーだんじゃねえ。ダメだと言ったらダメだ」
「もちろん、これが大切な船なのは承知している。だからこそ、こうしてわざわざやって来て、お願いしているのだ。この素晴らしい船に乗せてもらうために」
「おまえは知らないだろうけど、この『グレートヒーロー』はな、すごく特別な船なんだぞ。グレートなんだ。本当だぞ。嘘じゃない。そんじょそこらのやつに興味本位で乗せてやれるような安っぽい船とはちがうんだ」
「わかっているよ。で、君たちの名前は?」
「オレはリュウ。こっちは弟のキーロウ」
「リュウ君とキーロウ君だね。よろしく。この船は二人用だろ。君たちのどちらかが僕といっしょに乗ってくれればいいから。さあ、さっそく水に下ろすとしよう」
「ざけんなよ、なに勝手に話進めてんだよ」とキーロウは船に伸ばしたやつの手を横から乱暴に振り払った。「ちゃんと説明しろ」
「おっと、これは失礼。しかし、申し訳ないのだが、今はまだ詳しいことは言えないのだ。ただ、僕はこの国の未来を考え、大切な捜し物をしている最中だ。決して我欲のために行動しているのではない。それだけはわかってほしい。すべては、未来に続く輝ける可能性のためだ」
 オレとキーロウは、目を合わせて笑った。
「バカか、おまえ。そんなの、いきなり理解できるわけないだろ、なあ、キーロウ」
「はい、あにき、当然であります」
「ところで、おい、エミリオさんよ、そんなに堂々とこれに乗りたいとおっしゃる以上、ヨットは操れるんだろうな?」
「は……はい」
 オレの開き直った質問に、やつは急にとまどいを見せた。
「この『グレートヒーロー』をだぞ」
「も、も、もちろんだ。ちゃんと似たような船で訓練してきた。恐れることは何もない」
 おいおい、いざとなると意外な反応ではないか。実は本当の意味での自信はないらしい。ちょっと面白くなってきた。
「ほー、そうか。だったら、まあ、ぐちゃぐちゃ言ってもはじまらねえな。遠くからわざわざ来やかったみたいだし、一回だけ、チャンスをめぐんでやろう。ただし、一回だけだぞ。オレがクルーになってやるから、おまえが操舵ってことでいいんだな?」
「うむ。それがいいな。すばらしい。よろしく頼む」
「言っとくが、この湖は夕方に山下ろしの風が吹く。お前が逆風を利用して湖の半分まで上れたら、認めてやってもいいぜ。どうだ、キーロウ?」
 弟はニヤッと笑って「いいんじゃないの」と肩をすくめた。『グレートヒーロー』がどんなに優れたヨットでも、逆風を駆け上がるのは簡単ではないことをキーロウはよく知っている。
 オレたち兄弟の笑みを見て、エミリオは眉にしわを寄せた。
「半分というのは、湖の半分ということでいいのかい?」
「ああ。西の丘にある白い家を目印にしよう。あの横まで行けたら合格ってことにしてやるよ」
「そうか……うむ、ありがとう」
「ちっ、礼を言うのは早いと思うぜ。なんてったって『グレートヒーロー』だからな。人を選ぶんだ、こいつは。普通のヨットといっしょにするなよ。乗ってから『勝手が違う』とかほざいたって、チャンスは一回きりだ。風にもたついたら即失格。ダメだったら、おとなしく引き下がってもらうぜ。二回目はない。この約束はゼッタイだ。わかったか?」
「うむ、了承した」


 6


 オレはキーロウと二人でマストを立て、セールを整えながら、おおざっぱな仕組みをエミリオに教えた。あまり親切にしてやるのはどうかとも思ったが、使わせてやるからには、正しく操作してもらわないと困る。
 やつは上着を脱ぎ、黒いベストと白シャツ姿でオレの説明を真面目に聞いていた。知っていることと、知らないことが、半々という感じだった。確かに『訓練してきた』というレベルなのだろう。身の程知らずの都会人。こいつが向かい風に負けて赤っ恥をかくのは構わないが、その後の操作はオレが一人でしないといけない。戻ってくるのは風下だから問題ないはずだが、へたに岸に流されて水草に絡んだりすると面倒だ。
 とにかく、ざっと説明を終え、見た目よりはずっと軽い『グレートヒーロー』をシーソーみたいな人力クレーンを使い、台車から水面に下ろした。
 この瞬間、オレは『めんどくささ』を感じた。いつもそうなのだ。慣れ親しんだ重みのはずなのに。それはたぶん、これから始まることが、本気で向き合わなくてはならないタイプの『挑戦』だからだろう。エミリオのことではない。なによりオレ自身にとって、ヨットで湖に出るということは、寒い日も、霧の日も、向かい風の日も、それぞれに真剣な瞬間なんだ。
 案の定、山から湖を超えてゆるやかな風が吹き始めた。
「いい風だなぁ、キーロウ」
「ホントだよ、リュウにい。下手なやつなら、ここから出ることだってムリっぽいよ」
「なんならセールをたたんで、こいでまん中まで行くか?」
 オレが茶化して言うと、エミリオは小波の立ち始めた湖を凝視しながら「うるさい」と怒鳴った。やつなりに緊張しているらしい。
 フルブラウトさんが「リュウ、これを」と、古びたオレンジ色のライフジャケットを差しだしてくれた。オレは無言のまま腕を通し、ひもを股間にくぐらせてしばった。エミリオも、いちおうそのぐらいのことは知っていたようで、不器用ながらも一人で身につけた。
 先に着終わったオレは、腕を組んでやつに言った。
「おい、一つだけ、ヒントをやろう」
「ヒント?」
「ああ。右に少し行くと川への出口がある。あのあたりまでなら、岸寄りでもわりと深い。キールが触る心配がないから、この間で加速して、川に近づいたら一気に反転する、それが唯一のやり方だ。もちろん加速が足りないと、逆風で失速しちまうけどな」
「確かに、そこまではアビームだな」
 するとキーロウが、フルブラウトさんに「アビームってなに?」と聞いた。
「風を真横から受ける、一番加速しやすい体勢のことだよ」
「ふーん。それにしてもこいつ、ヘンな言葉、いろいろ知ってんな」
「言葉だけでなく、ちゃんと船を操れるといいけどな」とオレはひやかして言った。「ま、キールを折ったりしたら、弁償してもらうまでだ。そうだろ、キーロウ?」
 キールというのは船底に飛び出している板のことだ。
「こいつ、金持ちみたいだし、いろいろ壊して、いろいろ新しくしてもらうといいな。あ、もしかして、リュウにいは、最初からそれが狙いか?」
「ははは」
 オレは否定も肯定もせずに、エミリオをうながして『グレートヒーロー』に乗り移った。やつに後部の操舵をゆずり、オレは前部の横板に腰をおろす。
「お上品に『ズボンが汚れる』とか言うなよ」
 オレが茶化すと、板に腰掛けたエミリオは無言でこちらをにらみ、ロープの一本一本を華奢な白い手で再度確認していった。
 オレは桟橋を足でけって位置を定めてやった。
「さあ、本番だぜ。進めてみろ。オレたちの『グレートヒーロー』を」 
 やつがロープを引くと、セールが広がり、風を受けて大きくふくらんだ。船体が傾く。水中のキールがしなり、走る角度を要求してくる。

 やつは舵をゆるめて、わずかに船を風下に向けて調節した。船が加速を始めると、オレはマストにかけたロープを握りしめ、上半身を舷側に投げ出した。風の力に対抗して、体重をロープにかけていく。舵の角度を探り、横風をいなしながら加速していく感覚は、いちおうやつも理解しているらしい。
「加速は始めたようだな」
「わかってる」
「なかなか、えらいぞ」
「ほおっておけ」
「けど、このままじゃ岸に寄りすぎる。上げていけ」
「加速はこのぐらいでいいのか?」
「そんなこと、オレに聞くな」
「教えてくれたっていいだろ」
「教えたら勝負にならないだろうが」
「こっちは初めてなのだ、けちけちするな」
「くそ」とオレは手に食い込むロープを握りなおした。「合図したら一○度上げろ」
「わかった」
「セールの調節も忘れるなよ。用意しとけ」
「一○度なら、やらなくていいんじゃないか?」
「やってみろ。キールが水中から求めてくるから」
「どのくらい?」
「カムを一回半だな。一回だと、たぶん足りない」
「オーケー」
「もう限界だ。一○度上げ!」
「一○度上げ、よし」
 船がゆるく弧を描く。カクカクとカムを調整する振動も伝わってくる。しかしふと見ると、それはセールを上げるカムではないか。
「違うだろ」
「どれだよ、いっぱいあってわからない」
「いっぱいはねーだろ。教えただろうが」
 オレは手の中のマストトップから張り下ろしているロープを緩めて、振り子のようにやつに近寄ろうとした。すぐに風でセールがあおられて、船が傾く。すると、やつの手に別のロープの絡んだ。セールを支える一本だ。まずい。オレは足でマストをけって、身体を投げ出し、ロープを握って緩みを作った。
「さっさと抜け!」
「あ、ああ」
「ぼやぼやしてんな!」
 オレは自分自身で修正すべきカムを一回半回すと、飛び退くように元の姿勢に戻って、風で傾いた角度を正すために、足を突っ張り全力で体重を外側にかけた。
 やつは、言葉を失っている。
「しっかりやれよ。怪我しても知らねえぞ。風はホンモノだからな」
「すまない」
「バカ、『すまない』なんて言ってる場合じゃねえよ。そろそろタッキングの準備に入らないと間に合わねえぞ」
「うむ、試練はこれからだな、集中しよう」
「重心はオレがコントロールしてやる。だから、あわてるな。早く舵を回し過ぎると失速するぞ。逆風に向かって進むんだ、丁寧にポイントを探れよ。わかってるな」
「あ、ああ」
「タッキングの突入角は四五度、そこまでいったら一気に反転させる。風をよく見ろ。角度とタイミングを間違えるな」
「『タイミング』か。そうだな、何事も大切なのはタイミングだ。いい言葉だ」
「そんな感想言ってる場合かよ。死にたくなかったら、ここは絶対に成功させろ」
「いくらなんでも、この湖で死ぬことはないだろ。ライフジャケットも付けてるし」
「かんちがいすんな。失敗したら、オレがおまえを殺す」
「冗談はよしてくれ」
「無理やり出てきたんだ、そのくらい当然だろ。だいたい、オレなんか、昼寝してたんだ。夜行列車で帰ってきたばかりでさ。すっごく気持よかったんだぞ。嫌なことも何もかも忘れられる安眠を、むりやり起こされて、これだ。『失敗しました』じゃ許さねえからな」
 エミリオはオレの苦言をスルーして、セールの張りを目で確認しながら、妙に整った真剣な表情で舵に力を込めた。やつが角度を探っている感覚が、水の抵抗からオレにも伝わってくる。「そこじゃねえ」と怒鳴りたかったが、しかし、これは勝負なのだ。わるいが、それだけは自分で見つけてもらうぞ。
 船がゆるやかに弧を描き、風にむかって角度を上げていく。オレは、まるで食べ終わったシチューの皿を舌でなめるかのように、難しい角度の中からわずかな推力を求めて重心を移す。
「リュウ、そろそろ、いいか?」

  (後から思えば、このときが、あいつがオレを『リュウ』と呼んだ最初の瞬間だった)

「よし、いいだろう、やっちまえ!」
 オレはつっぱていた舷側から身体を戻し、船の反転に備える。
 ロープが一瞬ゆるみ、セールが暴力的に角度を変え、船が逆に傾く。風に負けないように、オレはすぐさま身体を反対側に投げ出す。角度が厳しい。上半身だけでは力が足りない。ロープの握る位置を変えて手首に巻くと、船の縁に両足をかけて、真横に伸び上がる。ありったけの体重をかけてバランスを取る。風を受けるセールと、水中のキールが、全力でせめぎ合い、唯一の出口を求めて、船が前方に飛び出していく。
 オレの背が水に触れ、飛沫がキラキラと散った。
「リュウ、やったぞ、成功だ!」
 やつの晴れやかな声が響いた。
「ああ、今のは悪くない」


 7


 その後も何度かタッキングをくり返し、空がオレンジ色に染まる頃には湖の中央に着いていた。
 オレはやつと二人でセールを上げた。力づくでロープを引いて上げてしまえば、カムが噛んで止まるようになっている。
 そしてオレは、やつに手を伸ばした。
「おい、握手、まだだったな」
「ああ」
 やつの手は赤くなっていた。握ると女みたいなヤワな手だ。こんな手で逆風を駆け上がったのだから、『グレートヒーロー』のコツをつかんだのは本当なのだろう。
「おまえ、無理したな」
「そうでもないさ」
 オレはマストに手をかけて立ち上がり、夕方が近づいてきた湖の広く静かな風景を眺めた。
「そうだ、なんか持ってくればよかったな」
「え?」
「ジュースとかさ。おまえがせかすからいけないんだぞ」
「僕だってそんな心の余裕はなかったよ」
 見るとやつは恥ずかしそうに笑みを浮かべていた。
「でもまあ、よくやったよ。なんだかんだいって、この風で、ここまで来たんだからな」
「美しい眺めだ」
「ああ。オレの最大の宝物だぜ」
「本当に?」
「本当さ。オレはこの湖の真ん中に来て、いろんなこと考えてきた。聖なる場所だ。聖なる場所の、聖なる風景だ。心して眺めろよ」
「ああ、承知した」
「で、どうだった? 来たかい、あったか?」
「もちろん。これは『いい船』だな」
「わかるか?」
「だって、初めてなのに、どうしたらいいか、船が要求してくるんだ。間違っていると『違う』と伝えてくれるし、正しいと『正しい』と答えてくれる。まるで生きているみたいだよ」
 やつの言いたいことはオレにも理解できた。
「オレも最初はそんな感じだったぜ。こんな田舎で、まともな指導者もいなかったけど、こいつが来て三日でタッキングを憶えたし、一週間でどこでも行けるようになった」
「すごいな」
「まあ、すごいっていったって、誰もほめちゃくれないけどな」
「あのさあ、リュウ」
「ん?」
「礼というのもなんだが、僕の突然の申し出に協力してくれた君に、一つ、大切な秘密を教えてあげよう」
 やつはライフジャケットのひもをゆるめ、シャツの胸元を開けた。まるで女性がボタンを外すような仕草だったので、オレはあせった。やつはそこからブルーベルベットの布袋を取り出し、中に入っていた握り拳半分ほどの大きさの透明な玉を、手の平に乗せてさしだしてきた。
「『ビアトリスの玉』だ」
「なんだ、こりゃ?」
「不思議な力が込められている。僕がここに来たのは、この玉の導きなのだ」
「何か映るのか?」
 玉をのぞき込んだオレを見て、エミリオは笑った。
「映りはしないよ。予言者の水晶じゃない。ただ、これは光るんだ」
「光る?」
「ああ、今も光っている」
「夕日が眩しくてわかんねーよ」
「この船と共にいると、本当によく光る」
「だから、わかんねーっつうの」
「ははは。ま、そのうちリュウにも見えるようになるだろう。成功の記念に、マストに飾っておいてもいいかい?」
「意味わかんねー」
 と、オレは大げさに首を横に振った。
「フックに縛りつけておこう。袋ごとね。これならなくす心配もない。『グレートヒーロー』と『ビアトリスの玉』。素晴らしい協調の瞬間だよ。わかるかい?」
「なにが?」
「今、ここに、一つの新しい運命が始まったのだ。この国の可能性を切り開く、記念すべき運命がね」
 オレはやつの妄想話についていけず、いったんは心が通じ合ったように気持ちになった自分を後悔しながら、帰りの支度を始めた。


 8


 いつもなら、この時間は風が静かになってくるのだが、今日はむしろ強くなってきていた。湖面の小波がそれを証明している。
 山からの順風を受けてのんびり帰ってもよかったのだが、セールを再び広げると、エミリオがスピードを上げ始めた。船の進路に角度をつけて、水中のキールに圧力をかける。弱い風でも、飛び出るような加速になる。コツをつかみ始めたところだから、続けたい気持ちはわかる。
 しかし、やつの宝物をマストに掲げたことが、いいことか悪いことはともかく、オレはなんとなくイヤな予感がしていた。風もいつもの山おろしから、春の不安定な季節風も混ざり始めている。もし突発的な強風が襲えば、いきなり帆が反転するワイルドジャイブの危険もある。『グレートヒーロー』は優れた船だが、自然の風を受けて進むことに変わりはないのだ。
 エミリオはすっかりコツをつかんで調子に乗り、ぐんぐんとスピードを上げていった。勝手に高揚し、浅いタッキングを繰り返していく。オレもマストからのロープを引いて、船の角度を支えてやる。舳先では常温のバターのように水面が切られていく。
 そのとき、オレは目の前に迫った危険に気づいた。水の色が変だ。湖に一カ所しかない浅瀬が近づいていたのだ。村では『緑の浅瀬』と呼んでいる。底から温泉が湧き、水の色がエメラルド色に変わっている場所があり、その付近は人が立てるほどの水深しかないのだ。小さなポイントだから普通は気にしなくていいのだが、今は真っ直ぐに突っ込もうとしている。
「エミリオ、やばい、カジを切れ」
「なぜ?」
「浅瀬だ」
「どこ?」
「正面」
「聞いてない」
「早く!」
「ムリだって」
 確かにこのスピードでは、急な進路変更はムリだった。
 オレたちは為すすべもなく浅瀬につっこんだ。
 いきなり船底に出ているキールが浅瀬をガリガリと噛んだ。ガツンと減速し、角度の変わったセールに風がからみ、船体は飛び出るように宙に浮いた。その瞬間、『グレートヒーロー』は飛んだのだ。オレは船縁をつかみ、わけのわからないことを叫びながら、飛んでいることを実感した。『ビアトリスの玉』の神秘……不思議な冒険の始まり……オレの知らない物語……

 しかし飛行は長く続かず、まもなく湖面につっこんだ。船は横転した。オレたちはなすすべなく投げ出された。
 幸い、この浅瀬のあたりは温泉混じりで、春でも水温はさほど低くない。
「リュウ、浅瀬があるなら早く教えろ!」
「教えた」
「遅い!」
「おまえがスピード出しすぎだっての」
 水深はオレの腰くらいだった。温泉が酸性だからか水草は少なく、ほとんど砂地がむき出しになっている。
「だって、リュウ、『ビアトリスの玉』をかかげた『グレートヒーロー』の凱旋だぞ。スピードを出さないでどうする」
「わかったよ。せめて船が壊れてないことを祈るのみ」
 オレは両手で水をかきながら移動し『グレートヒーロー』を探った。幸いキールは破損していなかった。
「大丈夫みたいだな。欠けたところはない。ヒビもないようだ。奇跡だな」
「言ったろ、『ビアトリスの玉』の奇跡だよ」
 エミリオの脳天気な自己陶酔に、さすがにオレは本気でムッとした。セールをロープごと滑車から外し、水面でたぐり寄せた。そしてキールが自由になるように浅瀬から押し出した。
「エミリオ、そっち回って、キールの方から体重をかけろ」
「わかった」
 やつが泳いで船の向こう側に回り込み、二人で協力し、なんとか船を起こした。ジャバジャバと素手で半分ほど水をかき出したあと、船尾から順に乗り込んだ。
「危ないことしやがって。バツとして、おまえは水くみだ」
 オレは船尾の腰掛けの下から手桶を取り出して、エミリオにわたした。やつは黙って頷き、船に半分以上残っている水をくみ出し始めた。
 オレは船のさきっぽに移動し、オールをこいた。手桶もオールも、ひとつずつしか積んでいなかったので、こうなるのは必然だった。
 すでに空には最初の星が瞬き始めていた。ずぶぬれの身体に、日暮れの風がやたらと冷たい。オレは身体が冷えないようにせっせとオールを動かした。
「きゃー、たいへん!」
 突然、女のような声が響いた。
「『ビアトリスの玉』がなくなっている!」
 オレは「知るかよ」と、当然のことのように言い捨てた。
「『知るかよ』じゃないよ」
「そんなもの、飾ったのもおまえだし、スピード出し過ぎたのもおまえだ。オレには関係ない」
「バカ言うな」とやつは動揺を抑え、真面目な声に戻った。「『ビアトリスの玉』と『グレートヒーロー』はセットなのだ。二つで奇跡を呼び起こすのだ」
「ああ、確かに、この船が空を飛ぶとは知らなかったよ」
「探さなくては」
「後にしようぜ。オレは疲れた」
「し、しかし……」
「だって、玉は光るんだろ? あそこは浅瀬だし、温泉が湧いてて水温も高い。心配しなくても探すのは楽だと思う。ま、そんなに気に病むことはないさ。本当に光るなら、な」
「場所はわかっているのだろうな」
「痛いくらい思い知ってるのは、オレだけか? あそこは『緑の浅瀬』って呼ばれてる。村人ならみんな知ってる場所だ。川と違って流されてどこかに行く心配もない」
「いや……そうか……そうだな……『ビアトリスの玉』だからな」
「はあ?」
「必ず『戻るべきものの手に戻る』ということだ。君は信じないだろうが、あの玉には意志があるのだよ。こうやって空を飛んだのも、きっとあの玉の意志だ。あの玉が、自ら浅瀬を求めたのかもしれない。確かに奇跡は始まっているようだ。まあ、探すのが容易なら、心配しても始まらないか」
「う〜ん、いまいち、納得しがたい理屈だが、いちおう、心配しなくていいってのは本当だ。最後にちょっと余計な事故が起きたが、『グレートヒーロー』は壊れなかったしな。いちおう課題はクリアしたことにしといてやるよ」
「あ、ああ」
「これからは使ってもいいぜ。オレかキーロウがいる時はな」
「いや、僕はこの船を……ま、いいか。こちらこそ、ありがとう、リュウ。とりあえず、僕にとっても素晴らしい体験だったよ。それにしても、二人で協力して風を受けるということは、本当にすごいことなんだな。風なんてどこにでもあるから普通は気がつかないことだけど、真面目な話、人生観が根本から変わった。よく言うだろ、『初めての共同作業』って。結婚式の時にケーキカットするシーンとか。そういうのは、お決まりの妄想か何かと思っていた。だいたい誰かと共同作業するなんて、多くは妥協と、欺瞞(ぎまん)の産物なんだ。でも、ここで感じたことは、違った。なんでだろう。風のせいか。あるいは『グレートヒーロー』のせいか。あるいは、初めて会ったリュウが、がさつな田舎者なのは論を待たないが、やはり選ばれし『グレートヒーロー』の使い手だったということか。いずれにしても、ここで経験したことは僕の人生を変える何かだ。まちがいない。ちょっと饒舌で恐縮だが、僕は、今、それくらい高揚している。湧き上がるすばらしさを、しみじみと感じている。そうだ、そのとおり」
「あのさぁ、エミリオさん、おたく、そんな悠長に感想ばっかり述べてないで、せっせと水をかき出してくんないかい。重くて、なかなか進まねんだけど」
「疲れるのだよ、これ。しゃっべっていた方が楽だ」
「楽なことを選んでどうするよ」
「とりあえず、君がこげば船は進むわけで」
「おまえなぁ、ヨットってのは、水をかき出したり、汚れをとってワックスかけたり、いろんなことを引き受けてこそだぜ。こいつと付き合うということは、そういうことなんだ。ちゃんと、わかっておけよ」
「そうだな。君は、本当に素晴らしい男だ。僕はリュウを心から尊敬するよ」
 オレは、喜びと、恥ずかしさと、怒りが、同時に湧き上がってムズムズした。
「だからぁ、くだらねえこと言ってないで、さっさと水かきを出せ、バカ!」
「う……うん……ごめんね」
 こうして、最後はずぶぬれでこごえながら、水をかきだすエミリオと、オールでこぎ進むオレという、笑いたくなるようなスタイルで、なんとかボートハウスまで辿り着いた。
 
 エミリオは別れぎわにオレに言った。
「僕たちは、ボートハウスの隣の宿に泊まっている。よかったら、夕食後に、少し来ないか」
「どうかな。オレ、夜行で戻ってきて、昼寝も中断されたし、けっこう疲れてるんだけど」
「分かっている。しかし君には話しておきたいことがあるんだ。いわゆる『重大発表』ってやつさ」
「話したいことがあるなら、今、話せよ……は……は……」
 と、オレは急にデカイくしゃみを連発した。
「ははは」とやつは鼻をすすって言った。「僕も寒いよ。リュウも、まずは帰って着替えたほうがいい」
「そ、そうだな」
「待っている。ぜひ、来たまえ」
 相変わらずの高飛車な言い方に、反抗したい気持ちはたっぶり湧き上がったが、やつがここに来たのには何か理由がありそうなのはオレにも察せられた。渋々頷くと「じゃあ、後で」と言い残し、寒さを振り払うように全力で自転車をこいで、キーロウと二人で家まで戻った。


 9


 オレは今日の出来事を、面白おかしく弟や妹たちに語りながら夕食を終えると、一人で再びボートハウスに戻った。キーロウをはじめ、みんなついて来たがったが「あいつとちょっと話をするだけだから」と言って我慢させた。
 澄んだ夜空には、細い三日月が輝いていた。オレは風のおさまった夜道をのんびりと走り、ボート屋のいつもの位置に自転車を置き、となりの宿屋に向かった。

 宿のロビーには、あの黒服の執事が待っていた。やはり顔つきからは初老と言っていい歳だと思うが、身体は妙にがっちりしている。
「お待ちしておりました。私はエミリオ様の付き人をしておりますポビーと申します」
「どうも、リュウです」
 オレはどう挨拶したらいいかわからないぎこちなさをごまかしつつ、軽く頭を下げた。
 とりあえず、彼の案内で二階に上がり、通路の奥の部屋の扉を開けた。この宿屋にはなんども入ったことがあったが、一番高級なこの部屋だけはオレも初めてだ。他とは明らかに違う広い部屋に、モスグリーンのチェストなどが置いてあり、まるで豪華な屋敷の一室のようだ。
 そこには、なぜか美しい女性が立っていた。丈の長いベージュのワンピース姿。装飾はひかえめだが、均整のとれた緩やかな曲線のシルエットが魅力的。ショートの髪もつややかに整えられ、すっきりと整った目鼻立ちと調和して、まさに芸術作品のようだ。
「ようこそ、リュウ」
 本物の貴族のような格調高いもの言いに、オレはゾクッとしてしまう。
「え、えっと、オタクは?」
「パトリシア・エミリオ・ローゼンバーグ。『グレートヒーロー』を自在に操る選ばれたあなたに出会えて光栄です」
 その瞳の高貴な美しさに、オレはどう反応したらいいかわからなくなってしまった。
「これは、いったい、ど、ど、どういうことですかぁ?」
「まずは、お茶をどうぞ。疲れを癒す美味しいお茶を。ポビー、お願い」
 彼女の言葉を待っていたかのように、先ほどの黒服の執事がカップに茶を注いでもってきてくれた。
「ど、どうも……」
 オレはとりあえず受け取り、美女に見惚れて、座るのも忘れ、立ったままお茶をすすった。
 なんてったって、オレが一番あせったのは、その女性がむちゃくちゃ魅力的なことだった。こんな田舎には似合わない超スーパーなお姫様。気品、知性、美貌、スタイルのよさ、すべてが桁違い。オレもいちおう都会にあこがれた者として、そういう素敵な女性が世の中に存在することぐらいは想像していたけど、目の前にいきなり、ってのはどうよ。
「オ……オレ、エミリオに会いに来たんですけど……」
「私です」
「はあ? え……えっと、あ、あなたさまが、も、もしかして、エミリオだったのですか?」
「そうです」
「でも、あいつ、男だし、ずいぶん失礼なやつでしたよ」
 彼女は目つきを鋭くして、声のトーンを下げた。
「おい、だったら言わせてもらうが、あそこに浅瀬があるということをどうして先に言わなかった。知っていればスピードを出すこともなかったのだ。まったく、ひどい目にあった」
「うっ……本物だよ、こいつ……」 
 彼女は口元に笑みを浮かべ、声のトーンを優しい女性に戻した。
「ごめんなさい、リュウ。これには理由があるの。私は素性を隠さなくてはならないのです。だから男として旅をしています。あなたをだます目的ではありません。どうか、ご理解下さい」
 女の声にもどれば、確かに女の声だ。元々ハスキーボイスの女が、男装しているわけではない。女性の声でいるときは、まごうことなき優しく清楚な声。しかし男の声を変えてエミリオを演じることもできる。恐るべき能力だ。こいつら、これで人をだまして金儲けしているのだろうか?
「じゃあ、どうしてオレには、あんたが女であることを明かすんですか?」
「あなたは、私にとって『大切な人』と確信したからです」
「大切な人?」
「はい。話せば、長いことです。しかし、あなたは、私を信頼してくれました。そして、正しく導き、自在に操れるまでに。心から感謝しています。リュウ、ありがとう」
 オレは首を振った。
「それはどうかな。誰だってできることじゃないと思いますよ。船が『グレートヒーロー』であったこと、そして、あんたの才能とか、努力とか、そっちの方が重要じゃないかな」
「私を認めていただけますか?」
「ああ。言ったと思うけど、あいつ、人を選ぶんだ。あんたがあれを操舵できたってことは、あいつもあんたを認めたんだ。だからこれからは使っていいぜ」
 美少女は嬉しそうに笑みを浮かべた。
「私は『グレートヒーロー』にたどり着いた今日、あなたと出会えた絆を信じますわ。それは、必ずや『よきこと』です」
「よ……よきこと、っスか?」
「あら、嬉しくはないですか?」
「よくわかんないけど、まあ、少しは、嬉しいかな」
 彼女は首を傾げてから、真っ直ぐにオレを見た。そして、また声のトーンを下げて言った。
「おい、僕が男として旅をしているのには、深い理由があるんだ。それに比べたら、君が田舎者かどうかなんて大した問題ではない。人間というのは、生まれや、所持金で、すべてが決まるものではないのだ。本当に大切なものは何なのか、それは本来、このアムン国の教えにしっかりと説かれていることだ。しかし人々は、目先の欲に走り、安易な解決ばかりを求め、大切なものを失おうとしている。僕はそれが絶対に許せない。非難されても、悪口を言われても、必ず自分の手で真実を見つけてやる。自分の、この手でね。それが僕の挑戦だ。リュウ、君なら協力してくれるね?」
「オレが?」
「そう」
 オレは逆に、エミリオが女装しているんじゃないか、女装しているエミリオと話をしているんじゃないか、と疑ってしまった。
「いったい、おまえ、なにを求めているんだ? オレなんかだましたって金はないぞ」
「生まれや所持金など関係ない、と言ったばかりではないか」
「そうだけど、でもそんなことじゃ、わけわかんねえよ」
「話すと長いことになる」
「そこを話してくんないと、さっぱりわかんないんだが」
「はっきり言っておくが、僕が抱えているものは甘いものではない。僕たちの人生と、この国の未来に関わることだ。決して大げさではなく、文字通り『命がけ』なのだ。それでもいいのか?」
「いや、『それでもいいのか?』って聞かれたって、オレ、まだ話がゼンゼン見えてないし」
「うむ、それはそうだな。まあ、とりあえず、これから『ビアトリスの玉』を探しに行こう。つきあってくれるね?」
「今か?」
「ああ。夜なら玉の光が見える、と言ったのは君だ」
「マジかよ」
 オレも日暮れ以降に探すことは考えていたが、まさか今夜とは。
「すでにボート屋には話をつけてある。『グレートヒーロー』を整えて、待ってくれているはずだ」
 オレが明日やろうと思っていたことを、このお嬢様は強引にフルブラウトさんにやらせてしまったらしい。
 オレはため息をつき、カップをテーブルに置いた。
「ま、いいけどね。船に乗ることは嫌いじゃないし、きれいなお姫様と二人で夜の湖面に出ると思えば、ちょっとロマンチックな気もする」
「おいおい、ヘンなことを考えるな」
「ていうか、おまえ、女装しているときぐらいは女の子らしい話し方すれば?」
「女装ではない! 女である方が本物だ!」
「いや、だから、わかってるから、せめて美しい女性の身なりのときは、その憎たらしいエミリオをやるの、止めてくれよ。お願いだから」
 彼女は口元に笑みを浮かべて、素直にうなずいた。
「ごめんなさい、リュウ。けれど、憎たらしいエミリオも、今は私の一部なの。これは必要なことなのです。好きになるのはムリでも、どうか受け入れてくださいな。お願いします」
「う、うん……ま、いいですけど」
「私の背負うものを、いつか大切な方と分けあうことができるその日まで、エミリオは、私の一部です」
「大切な方?」
「リュウ、ひとつ、ここではっきりと申し上げておきますわ。『私は、私であることを、あなたのために、ここに誓います』」
「え?」
「リュウ、あなたの、ために」
「は、はあ……」
「今、言ったこと、繰り返していただけますか?」
「私を、私が、私で……?」
「いいえ、『私は、私であることを、あなたのために、ここに誓います』です」
「それ、どういう意味?」
「私には、エミリオ以外にも、あなたに明かせない別の顔があります。私が背負うものは、とても重いもの。しかし、真の私は、あなたの前にいるこの私自身であることを、ここに誓う、という意味です。私にとって、これは、生まれて初めての誓いなのですよ」
「は、はあ……」
「『初体験』です」
「えー、ホントに?」
 と、オレは疑わしげに顔をしかめたが、無視された。
「では、そういうことで、私はこれから着替えをしますので、あなたは下のロビーで待っていてもらえますか?」
「着替えるの?」
「はい、外に出るときは、必ず男の身なりで出かけます」
「夜でも?」
「もちろんです」
「そ……そうか……また、エミリオに戻るのか……ねえ、もしよければ、女性のときには、別の名前で呼ぶことにしないか? せっかく、そんなに素敵なんだし」
 彼女は真面目な表情でオレに近づき、手を差し出してきた。
 オレがそのしなやかな手を取ると、彼女は淑やかに腰を下げた。
「私のファーストネームはパトリシア。よろしければ、パティとお呼び下さい」
「は、はい……わかりました、パティ」
「では、リュウ、のちほど、また」
 彼女は可憐な笑みを浮かべて、オレの手を扉へと導いた。
 オレはぎこちなく一礼してから廊下に出て、カチンと音がするまでしっかりとドアを閉めた。
 
 
 10


 一階に下りてソファーに座って待っていると、執事のポビーが先に階段を下りてきた。
「お待たせしてすみません。リュウ様、まもなくでございます」
「ゆっくりでいいよ、オレ、べつに急ぐわけじゃないし」
 どうでもいいことのように応えたが、彼はオレの前に来て「よろしくお願いいたします」と不自然なほど律儀に頭を下げた。
「いや、こちらこそ。ていうか、そんなに改まってお願いとか、しなくていいと思うんですけど」
「いえ、すでに事態は切迫しております」
「はあ?」
「どうか、姫様を、よろしくお願いいたします」
「やだなぁ、つきあうんじゃないんだからさあ」
 オレは冗談で『つきあう』と言ったのに、彼は笑みすら浮かべなかった。それに普通、執事は雇い主のことを『お嬢様』と呼ぶんじゃないのか? なんでわざわざ『姫様』よ。
「やっと、なのです。本当にやっと、ここにたどり着きました。リュウ様にあっては、意外とお感じなされるかとは思いますが、姫様は真剣です。物事の本質を見極めようとしたとき、旅立たねばならない現実を自覚なされたのです」
「なんか、あいつも、いろいろ言ってたな。オレ、よくわかんないけど、でもさぁ、それって、あいつの勝手な『思い込み』なんじゃないの? 要するに『お姫様のわがまま』みたいな?」
 オレの問いに、彼はクックッと笑った。
「リュウ様にかかって、姫様もかたなしですな」
「ま、それは冗談だけど。ほら、これから探しに行く、なんとかの玉とかいうやつが、関係あるとか?」
「もちろんでございます」
「ま、いろいろあったんだろうなってことは、オレにも少し察しがつくよ」
「リュウ様、あなたは、とても大切なお方です。それは間違いございません。はるか昔から続いている運命の一環なのです。まだ理解出来ないことは多いかとお察ししますが、どうか逃げないで立ち向かってください。立ち向かうことでしか、道は開けません。そして私から、ひとつ、はっきりと申し上げさせていただきます。姫様を、どうかよろしくお願いいたします。どんなことがあっても、必ずあの方を、全力でお守り下さい」
 真面目に言ってくれているのはわかるのだが、まるごと冗談であるかのような気が、どうしてもしてしまう。
「ポビーさん、期待してくれるのは嬉しいけど、オレ、よくわかんないから、どう応えたらいいかもわかんないっス。ていうか、明日になったら『ごめんなさい、やはり勘違いでした〜』って去ってっちゃう気もするし。全部、夢だった、みたいな。オレ、もう期待して裏切られるの、嫌なんだ。最近、個人的に落ち込むこともあってさ。だから、こういうことは、あまり深刻に受け取らない方がいいんじゃないか、って、そんなふうに思うわけ」
「お察しいたします。しかし、これからは、常に心が姫様と共にあることを、決してお忘れなく」
「は、はあ……」
「いいですか、『常に心が姫様と共にあること』を、絶対にお忘れになってはなりませぬ」
 丁寧な言い方だが、妙にずっしりと響く。こんな人から、わざわざ頭を下げて頼まれごとをしている自分って、なんなんだろう。
 やがて二階の扉が開き、階段を下りてくる足音が響いた。
「待たせたな、行こう、リュウ」
 あいつ(彼女)は、もちろん男の姿だった。もこもことたくさん着込んでいる。オレはとりあえず、さっき見た高貴な女性の姿を頭の中から押し出して、むかつくエミリオが相手であることをしっかり自覚した。
「おまえ、ずいぶん厚着してきたな。今は冬じゃないぞ」
「うるさい、僕は冷え性なのだ。ていうか、風邪をひいたらしい。田舎の馬車なんかに乗って、移されたのかもしれない。寒気がする。さっさと終わらせるぞ」
「はいはい、おおせの通りに」
 オレは「姫様か……」と、ポビーにむかってつぶやき、肩をすくめた。

 オレたちが宿を出ようとしたところに、自転車でキーロウが走り込んできた。
「リュウにい、これ」
 やつは手に持っていた封筒を差し出してきた。
「おい、来るなって言ったろ。今夜は乗せないぜ。ちょっと捜し物をするだけだから」
「そんなことわかってるよ。ただ、父さんが、これを渡してこいって」
 受け取ってみると、教会の通知などでいつも使っている封筒だった。
「なんで、こんなときに?」
「わからない。でも、急いで書いてた。手紙が入ってる。あとで渡せないと困るから、って」
「意味わかんねー」
「オレだって、帰ってきてからでいいだろって言ったよ。でも、なんとなく顔がマジだった。『リュウの親が関係している』って」
「親って、あの人、自分が親だろうが」
「そうだけど、きっと『本当の親』のことで、隠していたことがあるんだよ。こういうの、すげー大切なことだろ?」
「う……うん、まあな……。でも、なんで『今』かな」
「何が書いてあるか知らないけど、リュウにいは必ず見た方がいい。わかった?」
「わかったよ。じゃあこの捜し物が終わったらきちんと見る。いいだろ?」
「絶対だよ」
「ところで、おまえ、ちょうどいいところに来た。これから落とし物を探しに『緑の浅瀬』に行くんだけど、夜だから水の色がわからないかもしれないんだ。悪いけど、自転車で近くまで行って、ランプで目印になってくれないかな」
「いいけど、こんな夜に探すの?」
「ああ。光るものらしいんだよ。暗い方が見つけやすいって」
「ふーん。ま、いいよ。行ってくる。ジャガイモ畑のあたりだったよね」
「そうだ、たのむ」
 オレは宿からランプを借りようとしたが、ポビーが手に持っていたランプをさしだしてくれたので、ここは好意に甘えることにした。ランプを受け取ったキーロウは、もこもこに着込んだエミリオにむかって「捜し物って、おまえのか?」と挑発的に聞いた。
「そうだ」
「なんか、いろいろあるみたいだけど、リュウにいをひどい目にあわせたら許さないからな。あと『グレートヒーロー』も」
「君は、リュウの弟だったな?」
「そうだ」
「僕は君のお兄さんに心から感謝しているよ。心配ない。これから起こることは、すべて、素晴らしいことなのだ」
 キーロウは首を振り「なんだよ。全然本心から言っているように聞こえないよ。まるで作った声みたい。ま、いいや。行くね」と去っていった。
 フルブラウトさんは「探し物ならボートの方がよくないか?」と言ってくれたが、エミリオは『グレートヒーロー』で『ビアトリスの玉』を探しに行く、ということにこだわった。そのほうが輝きが増し見つけやすくなるはずだから、というのが理由だったが、オレにはよくわからない。
 とにかく夜中のセーリングは止めにして、オレが舳先でオールを漕ぐことにした。エミリオが男ならば、フルブラウトさんにもう一本オールを借りて無理やり漕がせるところだったが、あの美しい女性の姿を見てしまってからでは、そんなことをさせる気にもなれない。セールを開かないのでライフジャケットも付けず、二人で暗く静かな湖に進み出た。
 
 
 11


 風はゆるやかに山から吹き下ろしていた。星は輝いていたが、三日月は山の背に消えかかっていた。貧弱なランプをマストに引っ掛けて、カヌーよろしく湖を進む。夕方の時と同じように、オレが前、やつが後ろだ。
「なあ、パティ」
「なんだ」
 彼女の男口調にオレは苦笑して「二人だけなんだから『男』をやめていいんじゃね? 本当は女なんだろ?」と後ろに向かって言った。
「そ、そうね……でも、この姿で素に戻るのは、やはり違和感があります」
「気にしなくていいよ。オレは前むいてこいでいるんだから」
「でもね、私、あまり気を許しすぎるのは危険と思うの」
「どうして? オレが怖いのか?」
「リュウは、怖くはありません」
「あ、そう」
 はっきり言いすぎだ、と突っ込みたかったが、まあ、許しておく。
「本当に心配なのは、話すと長いのだけど、『追っ手』がせまっているかもしれないからです」
「『追っ手』? あんたたち、何か悪いことでもしたのか?」
 彼女はフフフと淑やかな声で笑った。
「私みたいな立場の者が、夜の湖で若い男性と二人でいること。これも本来は絶対に許されることではないのですよ」
「不倫だからか?」
「違いますっ!」
「男装して悪いことばかりやってるから、みんなに追いかけられるんだ。男装詐欺だ」
「ますます違いますっ! いいかげんなこと言わないでださいっ!」
「ははは」
 オレは自分でも珍しいくらい、すがすがしく笑ってしまった。
「オレも、よくわかんないけど、何かが動きだしたみたいだってことは、少し察しているよ」
「もー、ちゃんと真剣に受けとめてください」
「いや、事情がわからねえのに、それは無理だろ、普通」
「わかってからでは遅いのです」
 オレは「言ってること、むちゃくちゃだよ」とつぶやいて首を振った。
「ところで、リュウ、あなたは両親に関して、何かご存じですか?」
「教会のオレんちか? いっしょに暮らしてるからな。けっこう知ってるぞ。太ったおやじと、やさしいかあちゃんだ」
「いいえ。あなたの『本当の両親』のことです」
「なんだよ、いきなり」と、オレは突然わき上がった不安を隠し、小さな声で言った。「オレ、そんな話、したくないな」
「大学の研究者だったのでしょ、神秘現象の」
「さあな。よくしらねーし、興味もねえ。オレは世の中の神秘現象ってやつが大嫌いなんだ」
 オレが吐き捨てるように断言すると、やつは少し考え込んだ。
「リュウ、あなたは、この『グレートヒーロー』が、いつ頃作られたかご存じ?」
「知らねえが、ま、古いことは確かだと思う。二十年くらい前かな」
「一万二千年前よ」
「はあ?」
「歴史家は、そのころ、世界中で不思議な現象が記録されていることを証明している。理由はわからないの。超能力者が現れたか、未来人や宇宙人が来て、何かを残したか。でも、何かがあったことは、ほぼ事実。私たちのアムン国には、確実に太古の秘密が存在している。しかも、それは巧妙に隠されてきたの」
「それ、神話かなんかの読み過ぎじゃねーの」
「いいえ、『物体』として残っているものも、少しだけど存在するから」
「だとしても『グレートヒーロー』とは関係ないだろ。それに、オレの親とも」
「うんん。神秘現象を調べるということは、その遺物を調べることだから。その遺物が、この船なの。まさしく関係ありよ」
「ふざけんなよ。そんなバカげたこと、オレは信じる気はねえ」
「私は、この船を自分で操ってみて確信しました。確かに特別な存在なのだと。それに、リュウも、ご両親に関して、憶えていること、少しはあるのでしょ?」
「ていうか、パティ、おまえは何を知っているんだ? 何を探ろうとしてるんだ?」
 オレの改まった質問に、彼女は黙ってしまった。
「おい、知っているなら先に教えとけよ。オレがいくら田舎ものだからって、自分に関係することくらいは知る権利があるだろ。それに、おまえがどこかに行ってからじゃ遅いんだから」
「リュウ、私はあなたに、ここで、はっきりと約束しますわ。私は、あなたとの絆を信じます。たとえ今後、一時的に離ればなれになることがあったとしても、私の心は、これから、あなたと確実につながっています。いいですね?」
「あ……ああ」
「そして、もう一つ。あなたのご両親は、とても素晴らしい方たちです。だからこそ、私はここに導かれました。本人たちには、その自覚すらないかもしれませんが」
「あのさぁ、『両親』なんて、オレには関係ねえの!」
 オレはバンと船縁を叩いた。そして、ため息をついた。わけわかんない話だったが、しゃべっていたら、いつのまにかキーロウが持つ明かりが岸に見えていた。
「まあ、とにかく、着いたみたいだ」
「ありがとう。『ビアトリスの玉』はありますか?」
「どうだろう。おや、あれかな」
 オレは自分が見たものが、一瞬、信じられなかった。確かに水中で白く光るものが存在していたのだ。まるでロウソクが水中で燃えているかのようだ。オレはオールをこいで、彼女から見える位置に進んでやった。
「あれですね、リュウ。よかった」
「本当に光るんだな」
「それにしても、なんという強い輝きでしょう。こんな輝き、私も見るのは初めて。きっと、今夜が特別な夜であることを示唆しているのね」
「オレ、取ってきてやろうか?」
 と、後ろを振り向いたときには、すでに彼女は上着を脱ぎ、下着姿で水に手をつけていた。
「いやだ。こちらを見ないでいただけますか」
「は、は、はい……そ、そ、それはもちろん……し、失礼しました」
 オレが視線を暗い湖に戻して硬直していると、ちゃぽん、とやつが水に落ちた音が響き、船がゆれた。
 しかしあいつ、風邪をひいたって言ってなかったか?

 まもなく水中から、白い光が近づいてきた。そしてパティが顔を出した。
「はい。まるで水中ランプのようね。受け取って」
 なんだかんだ言って、やつは泳ぎは得意らしい。オレはその手から光る玉を受け取り、足下に転がすと、パティが船に上がるのを手伝おうとした。しかし横から乗ろうとすると、やはり安定が足りない。後ろに移動して、舵のところから手を引くと、すんなり上がれた。
「寒い……」
 彼女は下着姿を恥ずかしがるよりも、寒さに耐えかねた姿で、腕を胸の前で強く組んだ。
「あたりまえだ。このへんは温かい方だけど、まだ春だしな。泳ぐには早すぎる」
 彼女は自分で持ってきていたタオルで身体を拭き「やっぱり寒すぎです。濡れた下着も着替えていいですか?」と聞いた。
「オレに聞くなよ。ていうか、持ってきているのか?」
「いちおう」
「だったら、着替えた方がいい。むこうむいててやるから」
「うん……でも、手がかじかんで、ブラ、ぬげない……ひっぱってくれません?」 
「いいけど」
 オレは、あらためて彼女に近づいた。目の前の下着姿の存在が、憎たらしいエミリオなのか、美しい姫様なのか、どちらで理解したらいいのか激しく混乱した。なるべく平常心で、と自分に言い聞かせながら、彼女の背中を探っていくと、そのすぐ向こうにある胸のふくらみを想像せずにいられない。というか、ブラのホックを探っていると、必然的にオレの手は彼女の背中に触れてしまうわけで、おまけにランプの明かりを受けて胸ふくらみが横から半分ほど見えた。オレはむちゃくちゃあせり、なんとか二連のホックを外すと、すぐに側にあったタオルを彼女にかけた。
「さあ、身体ふけよ」
「寒い……」
「マジか?」
「マジです」
 彼女はガクガクと振るえ始めた。オレはおもわずその身体をタオルの上から抱きしめ、濡れた額に手をあてた。
「おい、熱あるだろ。ていうか、すごい熱じゃないのか?」
「う、うん……そうかもしれない」
「なんで水に潜ったんだよ。言えばオレがやってやったのに」
「だって、私の玉だから……」
「そんなん、かんけーねーだろ、バカ!」
「ご、ごめんなさい」
「約束とか誓いとか言ってる場合じゃっつうの。いいから、さっさとパンツも替えて、服を着とけ。たくさん着込んで、あったかくしてろ。帰りはオレ一人で大丈夫だから」
「ありがとう」
 彼女が、着替えを終えて、もこもこした姿になると、前と後ろで位置を入れ替えさせた。船尾に移ったオレは、帆を半ば上げて、順風を受けて帰ることにした。
 岸のキーロウにむかって「ありがとう!」と叫ぶと、ランプをゆらして返事が返ってきた。

 さっさと戻って、お姫様を寝かせてあげなくては、と思ったが、なぜかこんな時間に、岸からたくさんの手こぎボートがランプを掲げて近づいてきていた。七〜八艘ほどだろうか。どうやら、みな、この『グレートヒーロー』を探しているらしい。ランプの灯りがこちらを照らしてくる。
 マストに寄りかかっていたパティも気付き、驚いた表情で「大変」とつぶやいた。
「何が大変なんだ?」
「恐れていた『追っ手』たちです」
「いや、だから、それ、意味わかんねーし」


 12


「湖に出たときならば、逃げ場がないと考えたのかもしれません。しかし、私、ここでつかまるわけにはまいりません」
 男姿のやつが完全に『姫様』に戻っていることが、事態の深刻さを証明していた。
「そうかもしんないけど、どうやって逃げる? ずいぶんたくさん来てるぞ」
「川への出口は、あちらでしたね」
 彼女は午後の最初のタッキングの方向を指さした。
「キールが当たるから、川には入れないぜ。とりあえず右か左の浜辺につけて、おまえを下ろすことはできるが、夜中だしな。道もわからないまま、その厚着で逃げ切れるとは思えない」
「そうね……では、飛びましょう」
「はあ?」
「ボートハウスが風下です。さあ、『グレートヒーロー』の帆を広げましょう。私が舵を、あなたが前で重心を」
「いや、だから、それはもう懲りたし。それにこの方向だと、やつらに突っ込むぞ」
「大丈夫。今度は自信があるの。必ず成功させてみせます」
「『成功』って、どういう意味だよ」
「ここで成功しなければ、そもそも、私が来た意味もない。『来たこと自体が間違いだった』という証明になります」
「だから、どういうことだよ」
「私たちは飛べるの。『ビアトリスの玉』と『グレートヒーロー』があれば、必ず。浅瀬に弾かれるだけではありません。文字通り『飛ぶ』のです。今の玉の輝きは、その可能性を強く示唆しています」
「わけわかんねえし」
「リュウ、心配いらないわ。あなたと飛ぶことは、最初から想定していたことなの。きっとポビーなら、あちらで用意してくれています。すべてを察して」
 オレは全く話についていけてない自分に、自己嫌悪すら感じた。
「もー、わかったよ。好きにしていいよ。飛ぶなら飛べよ。奇跡でもなんでも、起こせるなら起こしてみろ」
「じゃあ、リュウ、こちらを向いて」
 パティは船の中央のマストに身体を寄せ、真剣にオレを見つめてきた。
「私に、キスを」
「はあ?」
「急いで」
「なぜ?」
「伝説の諭すところです」
「いや、まてよ。君はパトリシアだけど、憎たらしいエミリオでもあるわけで、少なくとも今のカッコウは男で、男とキスするっていうのは、違和感たっぷりなわけで」
「リュウ、迷わないでほしいな。私は、もう、迷ってないよ。私は、あなたとのキスを、心から受け入れます」
「オレだって、おまえのこと、受け入れたいよ。男じゃなく、美しいお姫様なら」
「私は、男でも、お姫様でも、ありません。私は、私。ここにいる私が、全てです。そう誓ったでしょ?」
「そりゃあ、まあ、そうだけど」
「私が、嫌いですか?」
「そんなことは、ないけど」
「愛していただけますか?」
「ていうか、そっちはどうなのさ」
「私は、あなたを愛します」
「あのさぁ、まえふりもなく、いきなりそんなこと言うって、ひどくね?」
「自信を持ってください」
「無理だって、そんなの」
「この国で、ナンバーワンの女性が『あなたを愛する』と言っているのですよ。その事実を、今、自信に換えていただくわけには、まいりませんか?」
「ていうか、話が、勝手すぎるだろ。だいたい、なんでオレなんだよ。おまえ、まだオレのこと、なにも知っちゃいないだろうが」
「わかるんです。だって、ずっと、探していた人だから。リュウは、ちがいますか? 本当は、私のような女性を探していたのではありませんか?」
「『私のような』というか……」
 と、オレは口ごもった。
 知的な都会の女性へのあこがれ。それは、自分が田舎者だから、と思い込んでいたが、もしも最初からそういう女性を潜在的に求めているのだとしたら? 逆に言えば、自分の理想の女性が、パティだとしたら? 自分の理想だからこそ、女神のように美しく見えるのだとしたら? それを否定できる要素が、何かあるだろうか。ない。自分に、自分で嘘を付くつもりでないのなら、認めなくてはならない事実だった。
「でも、エミリオはよけいだよ、エミリオは」
「わかっています。ごめんなさい。でも、それも、私の一部。許していただけますよね?」
「許さねえよ。ていうか、許さないけど、もっと大切なものがあるんなら、しかたがないじゃん。ていうか、そもそも、オレに選択権とかねえのかよ」
「あります。あなたが拒むなら、しかたがありません。私は、あの者たちに捕らえられます」
「くそ。今度は、脅しかい」
「いいえ。強制的にあなたが口を合わせても、この船は飛ぶことはないでしょう。それを知っているから、私は、本気なのですよ、リュウ」
 オレはため息をついた。
「オレ、おまえのこと、パティって呼んでいいんだよな?」
「はい」
「パティは、オレで、いいんだな?」
「はい」
「オレ、田舎者で、貧乏人で、本当の親もいないぞ」
「そんなこと、一切、関係ありません」
「パティって、変人だな」
「よく言われますわ。頑固者だ、と」
 オレは、苦笑し、中央のマストに近づいた。
「オレ、初めてのキスは、もっと叙情的なシーンになると想像していたよ」
「でもここは、聖なる湖でしょ?」
「そうだけど」
「初めてなのね?」
「ああ」
 すると、彼女は、マストごと、オレの身体を抱きしめてきた。
 男に抱きつく、なれた仕草。やつは初めてではない。それが明確に伝わってきてやっと、この急展開が彼女なりに熟慮の上の決断なのだ、ということが理解できた。勢いだけのことではない。パティはオレを選んだのだ。オレや、『グレートヒーロー』を。
 すると急に、言葉に出来ないほどの感謝の気持ちがわき上がってきた。同時に、負けない、とも思った。あいつがオレを求めているよりも、オレがあいつを求めている方がゼッタイに強い。自分はもう、この瞬間から、一人ではない。
「パティ、キスしていいか?」
「お願いします」
 オレは、唇を重ねた。すると、心のざわつきが消え去った。なぜ躊躇していたのか、何を悩んでいたのかも、まったくわからなるほど、自然で優しい気持ちになっていた。

 すぐに、マストから経験のない感触が伝わってきた。水の抵抗が薄れていく。本当に船が水面から浮いたらしい。
 たしかに『グレートヒーロー』は飛び始めたのだ。オレはパティから顔を離し、周囲を見回した。見慣れているはずの湖の夜景が、奇妙なほど新鮮に感じられたのは、すでに上空からの眺めに変わっていたからだ。
 帆に緩やかな風を受けて、音もなく空中を進んでいく。
 近づいてきたボートから、驚きの声が響いた。
「どこへ行く!」
「お待ち下さい!」
「お帰り下さい!」
 男たちの叫びを飛び越し、悠然と空を進む『グレートヒーロー』。オレとパティは、中に浮いている不安から強く抱きしめあったままだったが、なぜか経験のない安心感にも包まれていた。『グレートヒーロー』は宙に浮かんでいるにもかかわらず、不安定な挙動は全くなかったのだ。
 悠然と空を進み、そのままボート屋の建物も超えた。そして向こう側の駐車場に停めてあった一台の荷馬車に、ふわりと舞い降りた。ヨット運搬用の荷台が付いた馬車だった。
「おい、ロープ」
 との声に、オレが振り向くと、脇からフルブラウトさんがロープを投げてきた。
「は?」
「しばらないと落ちるぞ」
「ど、どういうことっスか?」
「時が来たのだ。さっさとマストにまいて、向こう側に落とせ」
 オレがそのようにやると、反対側には、戻ってきたキーロウがいた。
 キーロウは受け取ったロープを荷車に縛りつけながら「リュウにい、幸せにな!」と言った。
「はあ?」
「みんな、よろしくって言っていた。母さんが、無茶しないでね、って」
「何が無茶なのかわかんねーけど、今のこれは、無茶じゃねーのか? すげー、むちゃくちゃじゃねーか?」
「違う、運命だ!」とフルブラウトさんが、いつになく自信を持って断言した。「そうだろ、お嬢さん」
「はい!」
 パティは当然のごとく、迷いのない声で応えた。
 フルブラウトさんがグイグイとロープを引き、張りを確認すると、そのロープを伝ってヨットに上がってきた。
「リュウ、セールをたたむぞ」
「え?」
「早くしろ」
 言われるままに速攻で作業を終えると、彼はオレの肩をポンと叩き、御者席にいたポビーに向かって「いいぞ」と合図を送った。
 フルブラウトさんが飛び降り、ポビーが鞭を振ると、二頭だての馬車は全力で走り始めた。


 13


 馬車は暗い夜道を走り続けた。
 湖に現れた『追っ手』の人数はずいぶんいたが、宿やボートハウスに、それらしい自動車や馬車は一台も停まっていなかった。我々に気付かれないように、との配慮だろうが、おかげですぐに追いかけてくる心配はなさそうだ。村から出る道は緩やかな下りが多く、馬車でも相当にスピードが出せる。ヤツラとしてはシラー湖でワナにかけたつもりだったろうが、そこから逃げ出てしまえば、別働隊が隠れていない限り、しばらくは安心だ。
 ただし、熱のあるパティはつらそうだった。板バネの衝き上げるような振動が、熱のないオレでも頭に響く。オレはせめて彼女の頭痛を少しでもやわらげるようにと、そのしなやかな身体を、もこもこの服ごと抱きしめ続けた。やがて彼女の体温と匂いが、自分のそれと溶け合った。

 夜が明けてくると、ポビーはスピードを緩め、川原に降りる道に入った。高いマストが木の枝にひっかからないように気をつけながら砂地を進み、川縁の目立たないところに馬車を入れ、車輪止めを差し込んだ。
 ほっと一息だ。
 パティは熱に耐え、目を閉じている。
 オレはキーロウがくれたオヤジからの手紙を思い出した。この突然の出来事について、何か書いてあるかもしれない。
 ズボンのポケットの中に突っ込んでおいた薄っぺらい封筒を取り出し、早朝の淡い光の中で、シワのついた封筒を開けると、中には短い手紙が入っていた。


   召還者が来たらしいな。
   いずれこうなることは予想していた。
   リュウが私のところに来たときから。

   口に出すことは禁じられていたが、
   おまえの両親はすべてを捨てる覚悟で
   特別な使命にむかって進んだのだ。
   最高に素晴らしい両親だ。

   リュウ、誇りを持て。
   そして、自信も。
   私は、おまえのもう一人の父であれたことを
   心から嬉しく思っている。

   この国の未来は、おまえにかかっているようだ。
   成功を、強く信じているよ。    
   すべての幸運が、リュウと共にあらんことを。


 オレは、思わず、やぶっていた。手紙をまっぷたつに。
 そして、くしゃくしゃにした。
 オレの本当の両親は『悪いやつ』だ。オレを無視して、貧乏な教会に預けて、自分のやりたいことをやって、どこかにいっちまって。
 そんな話、聞きたくねえ。
 でも、やぶってしまってから、涙があふれてきた。自分でも収拾がつかないほど。
 するとパティが気づき「リュウ、私がいるよ」と優しくつぶやいた。
「え」
「私、あなたと、ずっといっしょにいるよ」
「オレなんかじゃダメに決まってるだろ、バカ!」
 オレはわけもわからず叫んでいた。
「逃げないで、お願い」
「なんで、オレなんだよ、違うだろ。そんなこと、望んだこともねえよ。こんなの、人ちがいに決まってる」
 オレはますますあふれてくる涙を、拭うことさえしなかった。
 なぜなら、これがオレの問題であることを、一番知っているのは、本当はオレ自身だったからだ。
 パティは、もこもこした上着から、白い腕を伸ばした。そしてオレの涙を指先でぬぐってくれた。憎たらしいエミリオの、ヨットを操舵した手の指……しかし今は、優しい愛のこもった指先。
 パティは淑やかな微笑みを浮かべ、脇にあったマストをポンポンとたたいた。
「だって、ほら、『グレートヒーロー』だから。ね?」








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